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2024年10月

2024年10月30日 (水)

終電

終章にあって周囲に伝わるは候補者の気迫のみならず。注がれる視線、候補の隣りにて白い歯を見せるなど絶対にあってはならず。求められし応援の弁、脇役ながらもそれこそが気合いの証、演説を終えて手をギュッと握るに関節がポキ。んなヤワなことだから。

都市部において当選に欠かせぬ駅頭。陣取り合戦は戦国の世のみに限らず、相手に先んじねば、が繰り返されて。早朝どころか前夜から、徹夜なんてのは生産性を伴わず。陣営間の調整を図りて和議を結ぶに双方の戦力が温存されたとか。

が、最終日ともなれば話は別。もはや後なく、そこに倒れ尽きても本望とばかり。因縁の三候補が並び立つこと終電まで。そこに選挙の順位を決せん、などと根性試しが如くの意地は即刻捨て去るべし。無意味とは言わぬ。が、んなことに体力を浪費する位ならば昼間の演説に心血を注ぐとか、もそっと他に。

いつぞやの衆院選。当時の県連会長や言わずと知れたその人にて。中盤戦にあって激励とは名ばかり、言い渡されるは終電までの駅頭。そこまでやらねば必死さが伝わらぬ「たとえ話」と解釈してか、終電を待たずして撤収せんとする候補にその人からの着信。よもや尾行、背後見れどもそれらしき気配なく、どこに監視の目が。そりゃ身内しか。

敗軍の将、兵を語らず、も演説の中身とあらば話は別。最後の訴えを聞くに。科学技術立国を目指す、までは結構。少子化にあっても科学の発展が暮らしを豊かに。その先には人が仕事をせずとも暮らせる社会を、との訴え聞くに。

ちょっと待て、そりゃ違うぞ。いかに科学が進歩しようとも人は働かねばならぬ。それは個々の価値観といわれればそうやもしれぬ。が、「働かずとも」なんてのは為政者が口にすべき価値観に非ず。何もせずに収入得られるのであれば仕事など、と見る向きもあろうが、その根底には「労働は悪」との概念がチラつく訳で。

そう、何も相談受けるは「外」に限らず。終身雇用に年功序列が保証された公務員の世界においても近年は中途退職が目立つとか。その理由や、ほぼ例外なく「一身上の都合」とされど、老いし親の介護とかやむにやまれぬ事情もある一方、職場の空気感が、仕事への意欲が、なんてのも。

残るべきか去るべきか、それも定年まであと一年とあらば何ら迷う必要があろうか、と部外者は思えども。悩む判断に一枚絡むは退職金。残り一年にあって既に天井。むしろ早期退職には上乗せが。ならばいっそ、というのが当人の言い分も聞くに聞けぬ上乗せ額。センセイ経由ならば人事課に、と。

そもそもに、この御時世にあってその年齢でそれだけの給与で雇ってくれるところなど。就職先なくば自宅にこもるがオチにて、こもらば老けこむは明白。すべからく定年まで、いや、付与されし延長の権利も最大限に行使すべき。定年なき農家を見てみよ。古希過ぎての若さが違う。日々畑と向き合う中に小松菜と大根を間違えることなど。いや、あるかも。

何も現役並みとは言わぬ。が、仕事があるというのは金銭に代えがたい不変の価値がありはせぬか。

(令和6年10月30日/2886回)

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2024年10月25日 (金)

比例

個が優先される時代にあって後進の不在に存続危ぶまれるはどこも同じ。事実、おらが神社なども担い手不足に近隣から手を借り。

いや、芸が途絶えたものに非ず、指南役が健在なうちに、なんて。そう、祭礼に欠かせぬ囃子。隣村のOさん曰く、再興を図らんとするに大事なのは芸の優劣以上に連帯感。アレコレと口を挟まれるに削がれる意欲。むしろ、下手同士が互いに冷やかし合いながらやったほうが上手くいくもの、と。

そう、全体とて本場に比べれば月とすっぽん、見劣りは明らか。他と変わらぬは神事位であって、何せ神輿の縦棒と横棒の上下が逆。されど、ああでもない、こうでもない、と見様見真似、まさに手探り状態。野暮といわれようとも上手く回っているのだからそれはそれで。例大祭を終えた。

選挙戦や終盤に突入。「裏金」とくれば次なるは。そこに救われ今日を迎える現職は数知れず。再挑戦の機会を、との恩情に報いるべくその後に逆転を果たす御仁もおられる中にあって、おらが候補は。仏の顔も三度まで、それが四度どころか五度目ともなれば。いつぞやに記した「頚肋(けいろく)」のようなもので。捨てるに惜しく。また、そんな声が上がらぬは偏に当人の人柄に負うところ大なれど、他を見渡すに比例なき陣営のほうが逆に勢いがあったりもして。

実の子といえども、もはやこれ以上。施設への入所を何とか、と人づてに相談を受けるは強度行動障害と診断されし二十歳の女性。定員に空きなく、受入は困難との回答に、ならば空きが生じる見込みやいかに、と聞かば、可能性は限りなく低い、と。本来ならば回転ドアに新たな受入を生み出すべきが理想なれど、特養が如く終の棲家に。入所、つまりは寝泊りを要する施設とあらば安からぬ費用を伴う訳で、なるべくならば在宅で、との狙いは分からんでもないが、それ以上に。

施設を頼るは軽度ならぬ「強度」の方々。親すらもお手上げの状態にあって彼らの面倒を見るに求められるは高い資質に豊富な経験。乱れる情緒に自傷、他傷、物損と錯乱を抑えるは並大抵のことになく、疲弊する現場は離職が絶えず。新たな担い手を探すにも求職に応ずるはつまりはそういう方々。ならば、どうすれば。

幼少期に気付く異変もうちの子に限って。せめて勉強だけは人並みに、との願望は子を想う親の愛情か、それとも。養護学校ならぬ一般の特別支援級ならばいづれ普通級に、との期待。が、成長すれども治らぬ行動。いや、むしろ当時よりも。最近は行動分析学にそのメカニズムが解明されつつある中にあって、幼少期に適切な処置を講ずれば改善が図られることが実証されており。

年齢が低ければ低いほど効果が高きは脳の成長過程において幼少期のほうが適応力を有するがゆえ。つまりは幼少期もしくは低学年時における対応が大事であって、その頃に詳しい専門家に巡り合えれば将来的な保護者の負担も減るばかりか施設に入らずとも。認めれぬ親の壁。その心境や察するに余りあるも、そこに手が届くことこそ。

親よし子よし施設よしの三方よしの好循環を何とか。

(令和6年10月25日/2885回)

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2024年10月20日 (日)

裏金

享年九十一歳、世に御長寿の部に属すると知るも御生前の屈託なきあの笑顔が見れなくなるは寂しいもので。今以て畑から元気な声が聞こえてきそうな。御神輿の巡行時、自宅前にてふるまわれる玉こんにゃくと漬物が絶品。あれだけの大人数をもてなすに並みの家では。葬儀に見る家の格式。堂々として万事手際よく。

急な解散は党利に過ぎぬ、との批判も、解散をやらねばやらぬで、なぜやらぬ、と。ならば、総理新たに国民の皆様に信を問わんとするは、いうほど不自然になく。奇襲に翻弄されるは相手のみならず。対戦の相手に新人ならぬ現職を抱える選挙区にあって準備整わぬはむしろこちら側だったりも。

足りぬ人手に夜な夜なポスターの貼り替えに追われ。見かねた後援会の役員が手伝って下さるも。元来、目立つ舞台は好かぬ。主役よりも脇役、いや、脇役よりも照明に大道具等の地味な役回りのほうが性に。

それを裏金と呼ぶかは兎も角も金銭に不透明な一面がありしことは否めず。ただ、そこが最大の争点とばかりに。記者の証言によれば当方は「該当せず」とのことらしく。十羽一絡げに批難浴びるは甚だ心外。潔白と知るに悪評を払拭せんと地声を張り上げ、「彼に裏金なし」と。当選させんとの一心からの台詞なれど、通りすがりにあって刷り込まれるはその有無以上に「裏金」の二文字。そこが増長される吉凶やいかに。大衆心理って難しいよナ。

腐敗した政党に鉄槌を、と「彼ら」は叫べど。何も野党こそ健全で、与党だけ、なんてことはあるまいに。政治の世界こそ世の縮図。自らを棚に上げて他人のことだけは許せぬ、なんてヤツは貴殿の回りにも。そもそもに、かくしごとの一つもない、善人ぶっとる奴に限ってなんて話は枚挙に暇なく。他人様のことは言わぬに限る。ならば肝心の候補者の資質やいかに。

駅頭に声をかけて下さるは味方とは限らず、演説中の候補に近づき論議交わすに三十分、なんてのは確信犯。私などは意に介さぬまでも当人はずっと粘り強く相手の話を。よくもまぁそこまで。たとえ誰であれ向き合う姿勢が変わらぬ、決して逃げぬ。んな代表例が未だ記憶に残る知床の惨事。

当時、原因究明に現地に派遣されるは副大臣の任にあった当人。救助活動が難航を極める中に報道陣の執拗な取材にも丁寧に応じるばかりか、現地にて向き合うは安否不明の御家族の皆様。刻一刻と時間が経過する中にあって絶望の淵に立たされる彼らに寄り添うは並大抵の話になく。気の抜けぬ日々、胸に去来するものは。

政務官でも事務方にでも任せることは出来たはずなれど自らが身を置くと選びし判断。いや、それとてあくまでも私の勝手な推測であり。実際は当人の意志とは無関係な既定の路線だったかもしれぬ。が、目立ちたがりや、露出狂が多い世界にあって損な役回りを演じる、いや、厭わぬ姿勢はもっと評価されて然るべきだと思うけど。

(令和6年10月20日/2884回)

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2024年10月15日 (火)

臨任

短く刈り込まれたフェアウェイに対して途切れた外側が「ラフ」と呼ばれ。同じ芝の上といえども合わぬ距離感。夏は草の成長に勢いあり、クラブ振り抜くに抵抗がまるで。あとは芝目、これも大事で、なんて知ったかを。

外周を囲むは一般道。校舎沿いには歩道も整備され。散歩がてらグランドで遊ぶ子供たちの姿を目にする、ごく日常のありふれた光景。近隣から歩道脇の雑草が目立つゆえ手入れを、との陳情が寄せられ。歩道は道路の一部にて草刈りは道路公園センターの仕事。片側は学校敷地なれどそのへんは大目に、と拝み倒して一件落着のはずが、しばし後に着信ありて。

歩道そのものが学校の敷地の扱い、と。はて、当該の歩道は車道に対して一段高くガードレールもちゃんと、あれを学校側が独自で設置したようには見えぬが、と反論すれど、図面を含む証拠書類を見せつけられるに。ふむ、確かに。とすると学校側か、されど、用務員とて昨今は非常勤にてそこまで手が回らぬ上に、業者に委託するにも予算の申請云々と、一年後に刈られてもナ。

今回は当方でやりますゆえ御心配なく、と道路公園センター。ただ、学校側との調整に猶予を、と聞くに。範疇外の作業を「やる」と申しとるのだからそれ以上は。が、日々歩道が利用される中にあって「すぐ動いた」という事実こそが彼らの評価に繋がる訳で。ならばと作業着に身を包み用務員に扮して。抜くに抜けぬ雑草の生命力。見かけ以上に量多く、刈り草の運搬まで。

さて、定例会も無事に閉幕。このたびの文教委員会における請願の審査に教員不足の解消を求めるものあり。年度当初の欠員や131名。市内小学校114校、中学校51校にて各校1名の欠員が生じていることになり。多いと見るか、少ないと見るか。病欠に産休、育休と突発的な欠員に補充される「臨任」はあくまでも「臨時」の任用に過ぎず。急な呼び出し、期間限定にその後の保証なく、使い捨てが如き契約では。せめて何かしらの見返りあって然るべきにあるまいか。

かたや、過酷な現場との認識が蔓延してか、志願者の減少に歯止めがかからぬ教員採用、ばかりか中途退職とて絶えず。ならば、と枠を超えて多目に合格通知を出せども読めぬは辞退率。大学入試が如く担保を求める訳にも。いやいや減少と申しても実際に欠員を埋めるに足る志願者がいるのだから彼らを採用すれば、と追及を見せるはあの会派。やって出来ぬことはない、が、選考の倍率が限りなく「一」に近づくに質の担保や。

基準に満たぬ以上、「今は」埋めねばならぬ。が、いづれ生徒数が減少に転じた際に基準を超えた分の解雇できるか。一時の大量採用が招きしツケは過去にも。他市に比べて多過ぎた人員が財政悪化の元凶とされたあの苦い経験。そもそもに配置基準が生徒数に応じとるところが話の肝にて、深掘りするは身分そのもの、制度の根本を揺るがしかねず。欠員を埋めるに正規こそ理想と知れど、やはり臨任「も」上手く活用する中に軟着陸を目指すが。あとは個別の状況に応じて。

それにしても学校の先生が不人気な職種とは何とも。

(令和6年10月15日/2883回)

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2024年10月10日 (木)

先例

たまにはメシでも、なんてのは。それも町中華ならぬ上等な鮨屋とあらば。メシ代ごときでごまかされてはかなわぬ。割り勘以上の会費を懐にしのばせ。

次回こそ必ず、と聞くこと三たび、未だ勝ちなしも見捨てられぬは人柄か。比例と申しても身分は同じ、それも与党の一員とあらば何かと。そう、肝心の話の内容や選対の責任者に、と。御指名いただくは光栄なれど、んな重責を担うに憚られ、固辞まではせぬにせよ、と提示する条件や二つ。

一つ目や他に適任者がおらぬか。そもそもにそこは過去ずっとベテラン県議の指定席であってまずはそちらに。のみならず他に県議、市議、いや、それ以外にも意欲を燃やす御仁がいないとも限らず。こちらはあくまでも「保険」で結構、最後まで見捨てぬゆえ、各方面に打診の上、不在とあらば。二つ目、仮にそうなったとしても私がその役職におさまることの損得、支援者の皆様の反応をよく見極めた上で。

見捨てておけぬはそこのみにあらず。今年も禅寺丸柿まつりの案内をいただき。柿が生まれると書いて「柿生」、駅名に見る柿へのこだわり。ゴルフのクラブとて今や金属なれど当時は木製、パーシモンだった訳で。

村を分断するは線路、駅のすぐ脇に踏切ありて朝などは。南北いづれにも改札を有するのがせめてもの救い。踏切の除去には線路の地下化もしくは高架化、いわゆる連続立体交差事業が理想と知るも。開かずの踏切に悩むはそこのみにあらず。向ヶ丘遊園駅などは線路を横断する地下通路を市が整備しており。

地下掘るに工事費は安からず。頭上に歩道橋はどうか。今やバリアフリーの時代にあってエレベーターは必須とされ。いや、そもそもに駅近辺を見渡すに土地の余剰なく。ならば橋上駅舎化、つまりは改札を上階に置くことで駅舎の一部をそのまま自由通路に。あれこそ鉄道会社の英断に見えがちなれど、費用負担や市が九割。

目的が開かずの踏切と片側改札の不便性を解消することにある以上は市が負担して然るべき、というのがその理由とされ。JR南武線の一部の駅では整備が進むも順番を待ちわびとる中にあって、こちらを優先すべし、なんてのは新たな火種になりかねず。

いや、何も掘るだ積むだ、安からぬ事業費を投ぜずとも。既存の駅構内をそのまま拝借できれば。せめて登下校時の小学生だけでも。それとて既存の収益が減るものにあらず、むしろ立派な地元貢献として企業が評価されること請け合い。今やタッチ認証でコインロッカーが利用できる時代にあって、そこに細工を施すこと位は。いや、そんな手間をかけずともトイレ利用が如く駅長の独断にて大目に見てあげれば。

立ちはだかるは安全性の壁。万が一、構内にて転倒または事故などに巻き込まれた際に問われかねぬ責任。それ以上に、そこに先例を作るに広がる波紋。踏切待ちに時間を浪費するは通学時の子供たちのみならず、大人とて通過を認めよ。いや、そこの駅で認められるならば隣の駅でも同様に認めるべきではあるまいか云々と。つまりは蟻の一穴になりかねず。やはりそのへんが。

(令和6年10月10日/2882回)

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2024年10月 5日 (土)

垣根

ランにゴルフに興じるは勝手。されど、もうこれ以上、家の洗濯物を増やすな、との厳命に足しげく通い詰めるは深夜のコインランドリー。ボタン一つに待つこと一時間は読書に仕事に丁度よく。

清潔感あふれる店内に目を惹く一枚。不釣合どころかそのセンスや悪からぬと思うけど。軽薄、頽廃的、バブルの象徴、その官能的な作品が似合うは深夜の歓楽街の片隅、等々辛辣な評価並べど、一斉を風靡したのは事実。当時は銀行のキャッシュカードのデザインにまで。私が目にしたのは田舎から上京後、百貨店内のジグソーパズル売り場にて。ひときわ目を惹いたのがそちら。

クリスチャン・リース・ラッセン。マリン・アートなるジャンルにあって、美術ではない。いや、「アート」をつけるもおこがましく、あんなものは作品ならぬ商品であって同じ括りにされてはかなわぬ。美術的価値なんぞ。ならば、本市が誇る岡本太郎の作品や、モネとて複製ならば、いや、当時は浮世絵とて。そもそもに美術なるものは。

物議を醸した商法に安からぬ対価を払わされた方々がおられるやもしれぬ、が、その商品が稼ぎ出した額や他の作品の比にならず。そこに嫉妬心がなかったか、といわれれば。そんな商品がウケるは日本のみ、当時の潮流に踊らされた方々もいる一方、中には純粋にあの図柄が好きだった方とて。売った側の責任か買った側の責任か。

世界を知らぬ門外漢が何をかいわんや、と御叱りいただくやもしれぬ。が、あくまでも嗜好の世界、美術的価値云々以上に本人が好きならばそれで。何も相手をけなさずとも。本屋にて見つけし一冊を興味深く。「ラッセンとは何だったのか」(原田裕規著)。ちなみに当時の私が選びしパズルはノーマン・ロックウエル。貧乏学生の部屋にラッセンはさすがに。

閑話休題。好奇心旺盛な娘に、と差し出されるDVDに示される嫌悪感。受験生には全く不要と。受け取らぬ、いや、受け取らせぬは娘の母親、つまりは私の妻。折角の善意を拒むなどあるまじき、と知るもその気迫に口を挟めるはずもなく。実の姉妹にあって両者一歩も譲らず、ならば私が、とマスオ的な役柄を演じ。

実業家ジョージ・ウェスティンハウスと発明王トーマス・エジソンの世紀の対決を描いた「エジソンズ・ゲーム」。電気の送電網を巡る攻防に偉人らしからぬ意外な一面が描かれていて。決着後、思いがけず万博の会場にて再会を果たす二人。この間を比喩するに用いるは「フェンス」。自らのフェンスは隣家の垣根の役割も果たすに「ただ乗り」とのエジソンに応ずるはウエスティングハウス。問題を解決する方法は二つ。フェンスの料金を折半にすること、そして、もう一つはフェンスなど作らぬことだ、と。

ところ変わってヨガ教室。仰向けの状態で片足をまっすぐ伸ばしたまま頭上のほうに。六十度が限界の私に対して隣りなどは直角をゆうにこえ。羨望の眼差しを向けるにインストラクターが一言。人と比較をせぬこと、自らのことだけ、と。でも、待てよ、視線が卑猥だったか、なんて。

(令和6年10月5日/2881回)

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2024年10月 1日 (火)

魔女

今年もオクトバーラン月間300kmにて申請を終えた。今や10km、20km程度ではびくともせぬ身体なれど、たった1時間のメニューに上がる悲鳴、翌日の筋肉痛はその部位が普段使われておらぬ証。不恰好な静止ポーズに体幹が磨かれるばかりか、あれだけ関節が柔軟に動かば、ランの故障リスクも減らせそうであるし、稼働域が広がるにゴルフの飛距離とて。

以上、勝手な解釈なれど、自ら実践するに得る確証。これほどの健康法を独り占めしてはバチがあたる、この効能を一人でも多くの方々に、との善意むなしく、職員のN君なんぞは座禅を組んだまま宙に浮いたら誘って下さい、と。おい、インド四千年の「神秘」ヨガをバカにしとるのか。

それでもやはりその道の専門家が身近にいるというのは恵まれたことで。その深淵に迫らんとあれこれと質問を浴びせ。そう、健康こそ万人の願い。

そちらに関してだけは公言憚ってきたはずも口に戸は立てられず、広がる評判。仕事そっちのけでゴルフに熱狂、というよりも。スコアは兎も角も、老若男女の相手を問わず、退屈させぬこと請け合いに舞い込むはそちらの誘い。誘われるうちが花とばかりに。この前なんぞ歴六十年にして御齢八十三歳の女性とラウンドするに、私のスイングがきれい、と。そりゃヨガをやっておりますゆえ、とは言わなんだけど。

センセイなるものは多忙、というのが世の定説らしく、応じるに謝意示されど、頭を悩ますは。向こうにとっては月イチ、いや、半年ぶりの一回なれど、こちらから見れば相手は一人のみにあらず、全てに付き合わば週イチどころか。

そう、彼もゴルフの腕は一流だったとか。何せ黎明期、寵愛を受けし国王を相手に日々興じていた可能性とて。テムズ河沿いの宿屋マーメイドターバンにて彼を囲いし面々が「クラブ」の発祥なんて説も。未だ多くを魅了してやまぬ作品群の源泉や何か。作品の解説や数あれども当人の生涯描いた伝記少なく。古本屋を物色して探し当てし一冊を夜な夜な。ピーター・アクロイド著「シェイクスピア伝」。

前回の演目や「マクベス」。そもそもに歌劇は不得手。何せ、音は耳で聴いて感じるものなれど、言葉は聞いて認識するもの。のみならず、歌劇とあらば言葉はあちらのものになる訳で。演奏中に映し出されるは日本語の字幕。耳で聴くは旋律にヨガのマントラが如き話し言葉、目で追う字幕の三重奏に。右脳と左脳と同時に動かせるほど器用にあらず。それでもあらすじ知らば多少は、などと演奏前にプログラム読めど分からぬは最後のオチ。

スコットランドの武将マクベスが凱旋の途中の森にて遭遇するは魔女。その予言を信じて王を殺害、王位を手に入れるも人心治まらず。復讐に燃えるマクダフに追い詰められて最後の決闘に挑むマクベスが信じるは魔女の予言、「女から産まれた者に殺されることはない」。

されど、刃に倒れるマクベスに浴びせるマクダフの一言や「オレは女の腹を裂いて取り出された身」と。ふむ、つまりは帝王切開、か。作品に込められし文豪の意図とは。魔女なる神秘に踊らされる人の愚かさか、為政者の慢心の戒めか、はたまた、魔女の予言の正しさ、だったりも。そこにこそ稀代の劇作家としての意義が、なんて。

(令和6年10月1日/2880回)

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