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2024年9月

2024年9月20日 (金)

番付

〆切に追われるは質問の原稿ならぬ、選句。手渡されし作品抄に、廃校の空を彩る大花火、と見かけた。

日本一の大花火や長岡の三尺玉、と聞かされてきたはずが。日本一、いや、世界一の大花火は隣村の四尺だそうで。

花火といえば大曲、人口七万人の市に押し寄せるは四十万人。そちらは花火師たちの祭典、というか、選手権なれど、こちらは神社祭礼に合わせた奉納を趣旨とし。当地にとって花火こそ命。何せ「番付」がある位だから。

やれ、孫の祝いだ、結婚だ、なんてのは序の口、会社創立何周年に、結婚十年おめでとう云々と「周年」にまで及び、何でも祝いにかこつけて。ゆえに近隣では、片貝に嫁は貰うな嫁出すな、と。されど、んな評判どこ吹く風。村に寂れた様子は微塵もなく、上がれ、上がれの大合唱。

イチオシや還暦迎える同級生一同による尺玉付きの大スターマイン。木遣り十分、いよいよ打ち上げ。盛り上げに一役買うは「こぶし」の効いた実況。四尺玉に勝るとも劣らぬ熱狂ぶり。が、オヤジたちの秘かな関心や。番付にひときわ大きく目を惹くはあの女優。能登の被災地に祈りを込めて、何せ当の本人が「来る」と色めき立ち。舞台に立たば地元オヤジたちの目は釘付で。

んな田舎に宿などあるはずもなく、終了後はローカル線の終電に。いやいや、長岡までは「たった」十五キロ。もちろんランで。深夜の到着も窓の外は明るく。見えるは新幹線のホーム。作業員のたちが安全点検に追われ。

閑話休題。球場は離れた郊外、急げど間に合わぬ試合開始。大半が仕事帰りの会社員、とあらばせめて三十分だけでも、どこぞの球団ファンの話。本市とて例外に非ず。都心からの移動を鑑みれば開演は19時、興行に2時間をみるに閉館21時はちと。興行主とてハナから目一杯など意図はせぬ。が、客の声援に応じてのアンコールを遮る訳にもいかず、閉幕後に客の尻を叩いて追い出すなんてのも。とすると時に後片付けがはみだしたりもして。

市が保有する類似の施設では21時「半」、同じ市民館でも隣市などは22時が閉館にて生まれるゆとり。いや、ちゃんとそれに見合いし対価はあって結構、閉館時間の延長を、とせがまれて対応を指示するに。以降、その市民館のみ現場が融通を効かせて下さったらしくも。あれから数年、市内どこぞの市民館には全く通じず、貸館の客が客として扱われておらぬ、と。

議案の審査が佳境。一部の市民館が指定管理者制度に移行するのだそうで。彼らが反対に挙げる理由の一つに、民とあらば雇用が保証されぬ。委託の料金はそのままに非常勤やアルバイトへの転換を図り、浮いた差額に経営者のみが私腹を肥やす、非正規とあらばサービスレベルとて。ゆえに直営の堅持こそ、と。

そう、開催は本市に限らず、施設側の対応の差異を肌で知るは興行主。確かに民間のほうが概ね良好。されど、中には直営以上にダメな施設とて、と聞かされるに。厳に戒められるべきは、民間は直営に勝る、の根拠なき楽観論に安易に流されることであって。外交の相手も同い年ゆえ心配いらぬ、との発言を笑っておられず。

(令和6年9月20日/2878回)

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2024年9月15日 (日)

前文

公務多忙の中、との紹介まさに。後のことは彼に託すゆえ、とは全幅の信頼の証。退席の市長にバトン渡され、万雷の拍手に登壇するはその人。

配下の職員たちは深夜に近き残業の日々、との挨拶に私なんぞは、それほどまでの意気込みあらば成功は確定的、と受け止めど、隣りの関係者に言わせれば、何をこの期に及んで、と。日本語って難しいなナ。開催迫る緑化フェア。そこを意図してか否か、音大の定期演奏会の演目も。

ミュージカル「みどりの天使」は限定二日間、昼夜四公演のみ。不思議な力を持つ少年チト。触るものみな緑に変えて。刑務所やスラム街だって緑あふれれば人の心も。これぞまさに、と余韻に浸る休憩中に背後からの声。居合わせるはその人、室長にて。来賓席におらぬとすると自発的か。この公演にまで足を運ぶとはさすが。自らを主人公に重ね合わせて本市を緑で埋め尽くさん、なんて。あくまでも「物語」にて現実は容易ならず。

そう、いつも彼らの真剣な演技、演奏に心揺さぶられる中にあって胸に去来するは卒後の進路。アルバイトをしながら劇団員を目指す、自ら夢をかなえんと挑戦は結構なれど、そこでメシ食えるプロはほんのわずか、とすると仮に一般企業への就職を望むに就職先は見つかるのだろうか。採用側とて音大卒と聞くに。大学の偏差値と入社後の仕事ぶりに因果なく。むしろ、一般教養を備えた上に特技を有すると見れば。まさに音大生は企業にとって「買い」の人材。

代表質問を終えた。前文こそは全体の「顔」というべきものにて格調高く、と教わり。他会派の前文を耳立てて聞かば。市制百年の式典に演奏されるは名曲「ボレロ」。作曲や音の魔術師モーリス・ラヴェル。旋律の反復はその曲に限らぬも高まる高揚感が絶頂に達するは百年の節目。が、しばし後の転調に迎えし終焉が意味するは暗雲か希望か。曲を市制になぞらえての解釈や悪からぬ感性、前文であり。

さて、本題。その為の会社まで設立するに覚悟のほどが窺い知れて。普及図らんと計上される予算額や二億円。チラシには「底が尽き次第、終了」との一文あれど。開始から二ヶ月にして打ち切りは解せぬ、とMさん。先着何名と列を待つこと数時間、自らの前で線をひかれるようなもの。ならば先頭から数えておぬしが最後。以降は運次第と可能性を示唆する配慮があっても。

住宅用太陽光発電設備の補助金申請のメニューや三つ。「パネル」「蓄電池」「ZEH」にてMさんが選択するは三番目。ZEHとはゼロエネルギーハウスの略。給湯器に断熱サッシ諸々、家全体をその仕様にすげ替える最終形にて最も普及が図られるべきものなれど、計算を伴うものだけに要するは時間。ちゃんと申請の開始前から市との相談を重ねてきたというに。

突然の宣告はまさに青天の霹靂であって、補助金なくば当初から選択はせぬ。この期に及んで白紙撤回と申しても再設計に重くのしかかる時間とお金。当初の見積の甘さは言わずもがななれど、枯渇の要因や蓄電池への殺到とか。そもそもに単品と受注生産の完成品を同列に扱わば結果は明らか。正直者がバカを見る世の中であってはならぬ、と。

(令和6年9月15日/2877回)

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2024年9月10日 (火)

朝刊

三種の神器といわれた時代も今は昔。需要こそ尽きぬまでも広告主に依存した収益構造にあってその将来性やいかに。

高視聴率、と申しても「率」とはあくまでも占める割合であって問われぬ規模。あれ以来、日中の番組などはまさに一色とか。現職の退陣なくばここまでの熱狂ぶりは。それすらも脚本の一つ、だったり。前哨戦そのままに本戦に流れれば。劇場の幕開け近し、も現実は小説よりも奇なりを地でいく世界なだけに。

かつての朝刊、今スマホ。朝の通勤電車内に見るまでもなく。時代はサブスク、ネットの定額制に顧客の囲い込みを狙えども。巷に無報酬の物書き多く、情報はタダで入手できる時代にあって。アクセス数が多いポータルサイトの上位にでも表示されれば。取捨選択を司るは人ならぬAI、巧妙なアルゴリズム、フィルターバブルに翻弄されて。

そう、こちとて例外にあらず。翌日の朝刊に取り上げられることこそが勲章、目を皿にして紙面を凝視していたのも昔の話。その後に気づかされるは内容以上に記者とのコネ、と。客離れ進むはそこに限らず。つい最近、知人のピアニストの話に、コロナ下の集客を代理店に依存した演奏家は以降の集客に苦戦、と聞いた。やはり相手の顔が見える、繋がる、というのが。

迫る代表質問。原稿を起草するに欠かせぬは。いつぞやの質疑、と過去の議事録を読み返さんとするに。本会議ともなれば本番前に検閲、推敲が施されて、それなりに体裁が整うも、常任委員会の会議録や無駄に長いばかりか、かみあわぬやりとり。聞く方、聞かれる方、ともに真摯に応じとるつもりも伝わらぬ心意。恥じらいの恋人同士じゃあるまいに。

そう、あの当時、委員会の発言は自由と知れど重鎮の不機嫌そうな横顔見るに挙手すら憚られた時代。んな恥ずかしいことは聞けぬ。前日に担当の役人を呼んで内緒のレクを。彼らにとってもこちらの肚を探るに絶好の機会。いつしか、一を言わば十とはいわぬまでもちゃんとこちらの意を酌んだ答弁が返ってくるもの。距離を縮めんとするに欠かせぬ対話。互いに膝を突き合わせて、と申しても新庁舎において繋がらぬ内線はいつぞやの投稿の通り。

最近はやや改善された感ありて、着信には応じて下さるのだけど。それとなく察する向こうの空気。電車の中で小声で話すあの場面が如く。受けるに浴びる周囲の視線、気恥ずかしさを抱けども、かけた方とて罪悪感が。何よりもそれが庁内の会議であること明白。そこに着信あらば途切れる緊張の糸。当人ばかりか周囲にまで。良心の呵責に電話を控えてみたり。遠ざかる互いの距離感。

こちらは過去の貯金ありて話さずとも阿吽の呼吸にてそれなりの意思疎通が図れども新人とあらば。相手との距離と仕事量の相関や小さからず。仕事減らすにまずは相手との距離から。

(令和6年9月10日/2876回)

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2024年9月 5日 (木)

歌集

鳴るは「皆無」と知りつつもつきまとう恐怖心。災害時とあらば尚更に。局長級の管理職に渡されし直通の無線機。万一の際に、との意図は分からんでもないが、さすがに寝床の横までは。不安は増幅されるもの、いづれ風呂やトイレまで。むしろ、「する」ほう「される」ほう双方に過度なストレスがかかりはせぬか、他に手段がない訳ではないのだから。双方、身軽に限る、と老婆心ながら。

ごみ収集然り、雨風も仕事は止まらず。朝の区役所を訪ねるに閑散として。部下は現場に駆り出され、と留守を守るは課長。近年はたびに開設が当然とされる避難所も実際の利用者はどうか。指示の発令に早めの避難と急かされど、外は土砂降り、外出そのものがかえって。が、川の水位に田畑の状況、危機迫りくる中に心配尽きず、じっとしていられぬは働き者の証拠でもあり。

予定されし学園祭に迫りくる台風。テントの設営に備品、提供品の買出しも終えて願うは天気の回復。いつもならば一両日にて列島を通過するというに遅々として。中止か開催か、生徒らの心境を察するに決行とされ。やはり、そうでなければならぬ。防災訓練の中止に寝ていられぬは私も同じ、働きものゆえ、違うか。出立に際し、校門内は電子マネーに限る、と聞いて。

当日の客は全て生徒とは限らず、保護者や近隣の高齢者も予想される中に現金が使えぬなどとバカげた話があるかっ。若者を相手に一つ世の道理なるものを、と腰上げど「来ぬで結構」と息子。そう、昨今は科学に頼り過ぎていかん。きじ鳴かば地震、はちの巣が根元にあらば台風、との伝承残るとの記述を見かけ。昔はこのへんにもキジがいたんだナ。

積み上がる市販の本の読み飽きて古本漁る目は輝けり、と慣れぬ一首。五七調は歯切れよく。旧家からその手の本を借り、読む一冊に故人の歌集あり。「川幅をみたし濁流ながれくる夜来の雨や二百ミリ越ゆ」とは平成元年。幼くして父親を亡くされ、小四に詠みし「竹の子ののびゆく初夏やわれもまたまけずのびたく一人書をよむ」の入選がその道の端緒と巻末に。

その後、教職に身を投じて一筋四十年。趣味や天文。何せその日の生まれ、七七七がそろわずと歌集にもある通り、大正七年七月七日ならぬ六日生まれだそうで。老へども失せぬ好奇心。「望遠鏡積みゆかんと七十歳過ぎて四輪駆動車を買ふ」、「三つ星のこのたしかな等間隔神も物指を用ひ給ふか」との一首に星座浮かぶは我も亦。オリオン座にてグルメにあらず。

そんな先生との談議や忘れがたく。いつぞやに芭蕉の句「荒海や佐渡に横たふ天の河」を巡り。天の川は七夕。とすると詠みし場面は夏の海であり、荒海は想像しがたく。いや、仮にそうだったとしても空に雲あり星空は見えぬはず、と理詰めにて。

博学の好々爺なる思い出しか持ち得ぬも当時はビンタ先生と畏怖される存在だったとか。歌集から二首、「一言が子等傷つけし事もあらん悔のみ多し教師四十年」、「先生と呼ばれ自ら省みずわが人生は欺瞞に満つるや」。先生に学びし教育論に天文談義を回想しつつ。

(令和6年9月5日/2875回)

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