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2024年6月

2024年6月30日 (日)

独身

祝祭年に本市が誇るホールにて予定されるはウィーン・フィルのみならず。年末のバイエルン放送交響楽団のチケットが「即売」だったとか。万が一にも未完とあらばその曲を以て第四楽章に充てよ、とは作曲家の遺言とされ。事実、完成を見ることなく。第九は第九でも未完の第九。本市が百年ならば、そちらは生誕二百年だそうで。

いつの時代も損な性格、不器用な人、というのは存在するものでまさに地で行くのがこの御仁。尊敬する巨匠ワーグナーとの面会に訪ねし玄関にて妻コジマに物乞いに間違えられた話は知られたところなれど、それとて、約束の時間に早く、建設中のホール見学の最中に躓いた下にペンキというのが真相。

女性の遍歴にいたっては連戦連敗。年齢差などおかまいなし、目の前の女性に一目惚れすること片手で足りず。恋愛運に恵まれなかったというよりもその性格に負うところ大。わが自慢の交響曲を君に、との愛の告白もかなわず。気になる名曲のその後や時の皇帝に献呈されたとか。

が、そんな愚鈍な性格はどことなく憎めぬばかりか、逆に応援したくもなるもの。放っておけぬは現世の人とは限らず。ある日の夢枕に立つはかつての親友イグナーツ。君はこの旋律で栄冠をつかむだろう、と告げられ。交響曲第七番の第一章に。

熱狂的な支持者、ブルックナーオタク、通称ブルオタは圧倒的に男性が多いとされ。確かに女性にはチャイコフスキーやラフマニノフのほうが。本人モテねば音楽まで、とは迷信の類。そもそも性別により音楽の嗜好が異なるなんて。そのへんはまたいづれ。

さて、定例会も千秋楽。背後に並ぶは報道カメラ。私は無実を信じているが、関係者がそう証言している以上は取り上げざるを得ず云々と。信じている割には演出が過剰な気がせんでも。市内の社会福祉法人に発覚した前理事長の私的流用。その額や八億といわれる中にあって問われる二人の関係。

本人の手記と思しき内部文書を片手に迫るはベテラン市議。店の名こそ伏されるも生々しい証言が公となり。捏造とまではいかぬまでも食い違う供述。事実関係というよりもそんな印象さえ与えられれば。そのへんは蛇の道は蛇にて。

そもそもにメシを食いながら仕事の話をするなんぞは野暮の骨頂で、会食といわれれば応じるに言わずともその意は互いに察して。法を逸脱せぬ範囲で手心を加えるというのが。むしろ、メシはともに食えぬ、業者との会食は一切拒否なんて君子面したヤツのほうが人としてどうか、と思うけど。

当法人への再就職とて少なからず。その意味するところはつまりはそういうことで。過去に市の監査が及ばなかった理由。相手に書類が整わぬゆえに、などと寝言じみた弁明を聞くに。やはり再就職の意味するものはそれ以外にないとされても。

役職を剝奪されたばかりか、流用分の返済も迫られ。資産家の御曹司とあらば自らの私財にて返済はするのだろうけど、そこに甘言を弄して甘い蜜を吸わんと群がった連中というのは。

(令和6年6月30日/2862回)

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2024年6月25日 (火)

選者

突如、事務所に届くは就任の依頼と題した手紙。自ら志願するほど厚顔になく、恐らくはどなたかの推挙によるものなれど。身に余る光栄、というよりも、んな「大それた」役職は他に適任者が。さりとて、畏れ多いと辞退するに推薦人に非礼にならぬか云々。受諾の可否を、と記されておらぬがせめてもの救い。気になる役職名や区俳句大会の「選者」だそうで。

届きそで届かぬ梅の青さかな、と一句。あと一歩、すぐそこに、は梅に限らず。近年進むは公園利用。朝のラジオ体操が高齢者の人気とか。運動が促す代謝は一日を通じて継続するから朝の運動は理に適っているともいえ。利用者の増加とともに関心が寄せられるはトイレ。未だ目立つ「和式」は足腰弱き高齢者にとって。

ウォシュレットなどと贅沢はいわぬ、が、せめて洋式化、願わくば、と求められるは。間に合いそうで間に合わぬが尿意。ズボンのシミとて気づかぬこともあったりして。こればかりは生理現象。昨今は尿漏れパット等の男性用の生理用品も充実すれど。人目に触れずトイレにて交換するも捨てるに捨てれず。自らの汚物にて労こそ厭わねど持ち帰らんとするも気になるは人目。当事者の身にならねば分からぬ悩み、一考を、と市に対応を求め。

自宅に封書届くはこちらも同じ。されど、その宛名が数年前に他界した奥方の名とあらば心穏やかならず。個人情報の紛失について、と題した後のカッコ内に「お詫び」と見ればおよその意味こそ察すれども、A4一枚に見る文字の多さ。つらつらと記される内容や詫びというよりも「弁明」。詫びならぬ詫びの文章は逆効果、と御心配いただき。

何も流出は役所に限った話になく。スマホ利用時に吸い上げられる個人情報。ネット上は無法地帯、突然、届く迷惑メールに気づかされる流出の事実。法令によれば漏洩等の事故が生じた際は、文書を郵送で送付すること「等」により「速やか」に「直接」知らせること、とされるもその件数が数百ならぬ数万ともなれば。

どこぞの企業において不正アクセスに情報流出の可能性アリ、詳細は調査中なれど今のところ被害は確認されていない、との定型文がネット上に公表されて。とんと聞かぬは後の被害。いや、それとて、報道されぬだけかもしれぬし、当該企業の責任を追及するにもいかんせん証拠が。

不正アクセスとあらば相手の意図や明らかなれど、役所の報告に聞くは記憶媒体、いわゆるUSBの紛失。仮に置き忘れにせよ、見付けたほうとて。スマホならまだしも拾得物と届けるに生じる手間。わざわざ自宅に持ち帰り中身を分析して、なんてのも、どことなく気が引け。とするとその後の実害など限りなくゼロに。されど、ゼロではあるまい。

早く相手に知らせねばならぬ、との義務感。知らせることに意識が向けられるあまり、ほかがおざなりになっては。個人情報の内容、件数により対応に差異が生じるはやむなしにせよ、同様の事故でありながら局によって対応が違うというのは組織としてどうか。いや、そんな事故は発生せぬに限るが。と自らの質問を終えた。

(令和6年6月25日/2861回)

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2024年6月20日 (木)

仄聞

シャッターは一瞬なれど写真は一生。何歳になろうとも同級生を特定するに欠かせぬは。

いや、当人らはそんなこと知るはずもなく。卒業アルバムの撮影を前に生徒の間で化粧が話題とか。化粧といわぬまでも、せめてヘアアイロン、とねだる娘に「いらぬ」と、にべもなき妻。ならば私が、と口を挟むに。

原稿がボツになる位だから説得力に欠ける、いやいや、その位、切れ味が鋭くなくば役目は果たせぬ。寝ているようで立っているは耳。代表質問は会派としての看板を背負いし質問にて全体を幅広く網羅するがゆえに個の協力が欠かせず。

誤字脱字の訂正は言わずもがな、言い回しや語尾の統一感。それとて、ですます調こそ理想。「おります」「させていただきます」など丁寧と知れど、へりくだった語句は役人を相手に似つかわぬ。

前後の脈絡は忘れてしまったが、事実関係を問う質問の前に付されるは「そのような事実はなかったと思われるが」の一文。あくまでも主観、推測の域を出ず、似た表現に「と仄聞するが実際はどうか」など。

仄聞とは一般的に聞き慣れぬ特有の言い回し、使わば高尚に見えそうなれど、ちょっと耳に挟んだ的な意味合いに過ぎず。つまるところ風評の信憑性を問うが如き、およそ仄聞する内容は真実であること大半、ならば断定の語調にて。自信をもって堂々と正論「らしく」述べることこそ。

そして、いま一つは「検討」。その意味するところはいつぞやに記したやもしれず。「の実現に向けた検討を求める」なんぞ、まどろっこしい、回りくどく。そのまま単刀直入に実現を求めればいいではないか。そんな当人の心理を分析するに。若輩の私如きが、んな大それたことを市に求めるはおこがましく、せめて、俎上に載せる位は、と。

つまり気弱というか、ある意味では「いい人」の証左なれども、それこそが官尊民卑の最たるもの。ハナから弱腰で仕事が出来るか、市議と役人の間柄にあっては遠慮は無用。こちとら曲がりなりにも有権者の負託を受けている以上は。

ならば役人側はどうか。仮に「大それた」ことを求められたにせよ。相手が相手だけに無碍に断るに忍びず、面目だけは潰さぬよう意だけは酌んで、との気遣いだったりも。いや、逆に「やる」ことが半ば確定的といえどもその二字さえ伏しておかば万が一の保険にもなり。

実現如何に関係なく「含み」持たせるに都合よき語彙であって。質問時から付すは敵に塩を送るようなもの。いや、向こうとて自らの切り札を先に切られては立つ瀬なく。以上、勝手な推測に基づく解説なれど当の質問者は意外とそのへん意識がなかったりもして。

劣化が目立つは市議側のみにあらず、金太郎飴が如き役人の答弁も昔はいま少し気が利いた内容だった気がせんでもなく。それを許してしまうところが市議の甘さか。

(令和6年6月20日/2860回)

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2024年6月15日 (土)

再審

聖域を侵すべからず。神格化される権威も今や全てが映像に残るばかりか世に知らしめられる時代。ならば可視化してみよ、なんて。それでも大相撲などはあくまでも試合後の判定なれど、種目によっては途中のプレーを巡り再審を仰ぐことも許されたりもする訳で。途切れる集中力に試合の流れとて。ということで、判断を巡る話題から。

長引く咳に下されし診断は気管支炎。安静こそ最高の薬と知れど仕事は待ってはくれず、回復せぬままに臨むレースに天も味方せず。窓外の雨音に起こされる朝、横たわるは人里離れた山荘の広々とした部屋。そのまま再び目をつむりさえすれば。いや、それとて、チェックアウトまでの数時間、その後の予定を鑑みるに。やはりそこに一日を費やすが賢い選択に見え。雨の日の完走などいい思い出に。そう、物事は万事前向きに。

ランよりも登山が如き格好、上下のレインウェアに身を包み、車で移動すること一時間。テンション高きまま受付を訪ねて告げられるは「中止」の報。天候上の理由とされど釈然とせぬ選手ら。ロングの部50kmなどは既にスタートしており、当時のほうが雨足は強かった、はず。えっ、そちらも中止?しかも途中とはこちら以上に残酷な。

悪天候の中に決行して万一事故でも生じた際に問われかねぬ主催者の責任。それとて、当日の出場はあくまでも任意。欠場とて何ら咎められるものでもなく、あくまでも自らの意思で出場を決めた以上は自己責任、と大半が認識すれども。ほんの一部、いや、わずか一人が騒ぐことで主催者側の非を問われかねず。必ずしも騒ぐとは限らぬ、が、そんな見えぬ不安も判断に微妙に影響していたりせぬか、と。

そう、巷にて耳目集めるはその話題。いわゆる客の迷惑行為への対応ということらしく、おらが市議会でも。何かあるたびに法制化が叫ばれて、正義感に駆られるあまり。制定後はさも自らの手柄とばかり宣伝されども喉元すぎるに。律令国家といえどもこんな法律が多い国は他に。ということで、条例化の是非はさておき、事態を深刻化させる背景や日常にありはせぬか、というのが今日の。

典型例があの末尾に付きし漢字一文字。客を客と見なさぬ提供側の傲慢な姿勢を窘める意図や分からなくもなく、いや、事実、そんな態度に辟易とさせられた苦い経験を有する人も少なくないはず。が、逆にへりくだり過ぎるがゆえに相手を増長させておらぬか。

そして、もう一つは発車間際の駆け込み。激突するに自らの非を棚に上げて駅員に因縁をつけるなど始末に負えぬ。ドアの開閉に見るアナウンス。ドアが主語にならば述語は「しまります」。目的語とならば「しめさせていただきます」と、低姿勢な言い回しもあれば。どこぞの私鉄など、ドアを「しめます」と有無を言わせぬ言いっぷり。

が、この期に及んで、そのくらい毅然とした言い方のほうが世の秩序を維持するに一役買っておらぬか。前段の再審とて然り、我こそが正義、断じて口は挟ませぬ、なんて傲慢さが相手の引金になっていたりもして。

それにしても、中止といえども返還されぬ出走料、いや、それ以上にレースを逸したことで生じる調整の狂い。何せ次は三年ぶりの。

(令和6年6月15日/2859回)

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2024年6月10日 (月)

疎開

南足柄市と聞いて浮かぶは足柄山の金太郎ならぬ、父の疎開先。奇縁にて知りあいし御当地の市議。少年時代の記憶と申してもあれから既に八十年。通いし小学校の名と近くにありし公民館、そして、ミカン畑が広がる農家、の三つを手がかりに疎開先の家を探し当てて下さったそうで。最後の孝行とばかり高齢の父を連れだって果たす感動の再会。その後、まもなく永遠の眠りにつかれたと。

当時の礼は言い尽くせぬ、とは横浜市の元議長。久々の再会も肝心の相手や既に改選期に辞職されて今や病床の身。今も残る当時の局長が相手をして下さったのだけれども語られし当人の過去。

ああ見えて当時は異端児というか屈指の「不良」にて質疑中にも野次は飛ばすは勝手に席を立って市長との直談判を始めるは、誰も手に負えなかった、と。皆様とともに議長会、その会長を務めた晩年は本当に温厚になられ。三政令市の皆様が支えて下さったおかげです、と。

さて、迫りくる代表質問に用意した私の原稿が「ボツ」になった、とか。折角の原稿を何するものぞ、なんて憤慨はせぬよ。大事なのは過程。その過程こそ成長の糧になるものであって作品など過去のものに過ぎず。いや、何と申してもボツになるとはそれだけ「尖っていた」証。

具体的な内容に今後の対応云々と「平凡」な項目などまさに予定調和の最たるもの。待ってましたとばかり延々と答弁が続き、いつの間にか最質問の時間が足りない、なんて。

むしろ厳しい質問とあらばそれ自体が世の賞賛を浴びるばかりか、その中にあっても頑として妥協を見せぬ答弁は同じ内容といえど一層の価値を有する訳で。これぞ、見てよし、聞いてよし、答えてよし、の。バカだな。

で、肝心の内容は指定管理者制度の是非。制度の施行から二十年。利用者の目線が主であるべきも、こと近年はそれ自体が目的化するあまり。民間ありきで検討が進むこと自体、社会的な風潮に追従する安易な選択であって、公務員としての矜持に欠けると言わざるを得ぬ、と。

確かに当時は役所の特権とばかり他の参入を許さず、民間に、との選択は正解だったと思うけど。それとて、本来ならば、そこに何がどう変わったのか、何故に直営では出来なんだか、と思考を巡らすべきところ、契約後は手が放れたとばかり。

とにかく「つつがなく」と。とすると契約額とてとりあえず予算内におさまっていれさえすれば、なんて。とどのつまり、発注側が握るべき手綱が相手側に握られておるまいか、と警鐘を鳴らしたつもりが。ということで、出かける先は。

雄大な大自然を生かした国内屈指の名門にて遭遇するは野生のキジ。繁殖期にあって警戒心から姿をくらます中にあっても相手に居場所を知らせねばならぬ。草むらに鳴くは結構、されど、フェアウェイの上にいては外敵に。いや、オレのボールが当たっても知らんぞ。

(令和6年6月10日/2858回)

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2024年6月 5日 (水)

鶯宿

公衆の面前、それも少年野球の開会式とあらば尚更のこと、既に整列しとる中にそんな冴えぬ顔と気だるそうな足取りでやって来られてはかえって評価を落としかねず。身から出たサビとはいえ、んな中に身を置いとるから運気が上向かんのであって、たまには自然の中に身を任せて。それにしてもペッカーズの選手宣誓はよかったナ。
収穫が最盛期を迎えるに人手が足りぬ、と聞いて今年も。たわわに実りし梅の木を相手に。一つ一つ丁寧に収穫していくのだけれどもこれが本当に無心になれるもので。枝とて四方に伸びるよう手を施せども思い通りにならぬが自然界。地面から届かぬ上のほうにも。
脚立が倒れぬよう足場を固めるまでは誰しもが。脚立の上から手を伸ばさんとするにあとほんの少し、そのひと伸びが命取り。ドスンなんて。されど、土の上に大の字でたわわに実りし梅の木と青空を眺めるなんて経験はなかなか。
足りぬ手を補わんと求人に依頼すれども高所を伴うに難色を示されたと園主。まさにそれこそが労働なるもので、身体を酷使するに対価を貰うは当然。されど、百キロのレース然り、酷使する方が対価を払うにやはりそれだけの価値があると見るのが。今回の品種は鶯の宿と書いて「鶯宿(おうしゅく)」というのだそうで。
そう、障害者施設の施設長Nさんが乗り合わせた路線バスにて聞こえてしまった隣りの会話。派遣会社の担当と思しき人物に求人に応募した中年の女性のやりとり。
電話が鳴ったら見に行けばいいだけ、あとは応接で寛いでいれば、との説明に喜びを隠せぬ相手。会話の内容から察するに同業者らしく。事業名の通りあくまでも「預かる」ことこそ本分であって、それとてちゃんと使命を果たしとることには違いないのだけれども。果たしてそれでいいのだろうか、との素朴な疑問。
利用者に一方的に施設があてがわれた措置の時代から今や利用者の「選択」の時代。Nさんの施設が高い人気を誇る理由の一つや日課とされる近所の散歩。それとて義務にあらず、むしろ、施設側には余計な仕事というか。されど、当事者にしてみれば。
おおはしゃぎの中に脱走、というか行方不明になる子もいたりして。過去には警察沙汰にも、とNさん。が、そこは保護者も慣れたもので。そんな新たな刺激が症状の改善、子の成長に繋がることは科学的に証明されているとか。事実、施設側のそんな献身的な姿勢に選ばれる方が大半を占めるとか。
歯磨きすら出来ぬ子、それが障害児ともなれば尚更。歯の不衛生は万病の元と知れど、押しつけるに反発は必至、やらせずとそのように仕向ける、というか彼らの精神構造を理解した上で自発的に行えるよう。いや、実際にそうなるのだそうで。
それこそがやりがい、と施設長。当事者に「寄り添う」などと言わば響きこそいいけれどもその解釈や様々。貰える対価は同じなれど、やはり利用者に喜ばれてこそ。それこそが「福祉」だと思うけど。

(令和6年6月5日/2857回)

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