新札
塾に通い詰める日々に迫られる進路選択。滅多におらぬ自宅にて「たまたま」聞こえし母娘の会話。意中の志望校を伝える娘に妻がひと言、「そんな偏差値の高い学校では異性が寄りつかぬ」と再考を求め。この御時世にあって何をかいわんや、耳を疑いしその一言に「学歴を前に交際を躊躇する男など相手にするな」と娘の背中を押した、つもり。が、んな話はそこに限らず。
無事に授かることこそ夫婦の願いとなるはずも。二人目も女児と聞くに「くそ、またかっ」と吐き捨て向かうは玄関。「待て、子の名だけでも」と止める義兄に「名前なんぞ勝手に」。「ならば、せめて一目」との静止を無視して家を留守にすること十日。あれから数年の歳月流れ、迎えたある日。
父親の必死の説得に首肯せぬ長女。口を挟みし義兄に「女はいい縁談に恵まれるが何よりの幸せ。そんなことをすれば嫁の貰い手が」と諭されてうなだれる父。あきらめかけて目に入るは十日も放っておいたその娘。「おまえは行くよな」の投げかけに。
数え八つにして使節団に加わり異国の地へ。父親想いの聡明な女の子の名や「梅」。そう、まもなく登場のその人物を描きし小説「梅と水仙」(植松三十里著)。才人を育てるは賢母のみにあらず。その時代に生きた父親の豹変ぶりが何とも滑稽であり。
閑話休題。委員会にて報告受けるは保育園の利用状況。倍率「二」を超える中にあって埋まらぬ定員の不思議やいつぞやの投稿の通り。一年とされた育児休暇も延長されて。満額といかぬまでも給与が保証される上に国の手当ても。入れずとも結構、いや、むしろそのほうが好都合。入りたくとも入れぬ「証拠」さえあれば。
制度的にそうなっとる以上は不正とは言わせぬ、されど道義的に、って話で。ついた名称が「落選狙い」の申込とか。定員を定めし以上は見合うだけの保育士の確保を求める反面、逆はあずかり知らぬでは。いや、その為の非正規と申しても「今年だけ」なんて勝手な都合にいい人材が得られるか。
のみならず、少し前までは自由な往来が許される中にあって、選ぶ方も選ばれる方もそれなりの心づもりで入園を迎えていたはずが、数日前に手渡される一枚の名簿。初対面の園児と保護者を相手に悪戦苦闘を強いられる園側。そう、今や入園の申込は「自動的」に処理されて。
満たずとも保育士分の助成はキチンと手当されている、との答弁もどことなくカラクリがありそうに見え。そんな時は不思議と仕草に現れるもの、見逃さぬ市議にかみあわぬ答弁。何よりもそこまで順調ならば現場の悲鳴は聞こえてくるはずもなく。過剰な保育士を抱えるは無駄と知れども当事者の苦悩すら知らぬようでは役人こそ無駄と思われても。
そもそもに「落ちた死ね」が扇動的に報道されて青天井の財源が手当てされたあの時代。肩で風切る勢いに前のめり感はなかったか。いや、彼らには彼らなりの苦労があったやもしれず、が、やはり社会の風潮に翻弄されるあまり着地点を見失いし非は拭えず。それとてちゃんと聞く耳を立てておれば。追い風の時ほど慎重に。
(令和6月5月30日/2856回)
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