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2024年5月

2024年5月30日 (木)

新札

塾に通い詰める日々に迫られる進路選択。滅多におらぬ自宅にて「たまたま」聞こえし母娘の会話。意中の志望校を伝える娘に妻がひと言、「そんな偏差値の高い学校では異性が寄りつかぬ」と再考を求め。この御時世にあって何をかいわんや、耳を疑いしその一言に「学歴を前に交際を躊躇する男など相手にするな」と娘の背中を押した、つもり。が、んな話はそこに限らず。

無事に授かることこそ夫婦の願いとなるはずも。二人目も女児と聞くに「くそ、またかっ」と吐き捨て向かうは玄関。「待て、子の名だけでも」と止める義兄に「名前なんぞ勝手に」。「ならば、せめて一目」との静止を無視して家を留守にすること十日。あれから数年の歳月流れ、迎えたある日。

父親の必死の説得に首肯せぬ長女。口を挟みし義兄に「女はいい縁談に恵まれるが何よりの幸せ。そんなことをすれば嫁の貰い手が」と諭されてうなだれる父。あきらめかけて目に入るは十日も放っておいたその娘。「おまえは行くよな」の投げかけに。

数え八つにして使節団に加わり異国の地へ。父親想いの聡明な女の子の名や「梅」。そう、まもなく登場のその人物を描きし小説「梅と水仙」(植松三十里著)。才人を育てるは賢母のみにあらず。その時代に生きた父親の豹変ぶりが何とも滑稽であり。

閑話休題。委員会にて報告受けるは保育園の利用状況。倍率「二」を超える中にあって埋まらぬ定員の不思議やいつぞやの投稿の通り。一年とされた育児休暇も延長されて。満額といかぬまでも給与が保証される上に国の手当ても。入れずとも結構、いや、むしろそのほうが好都合。入りたくとも入れぬ「証拠」さえあれば。

制度的にそうなっとる以上は不正とは言わせぬ、されど道義的に、って話で。ついた名称が「落選狙い」の申込とか。定員を定めし以上は見合うだけの保育士の確保を求める反面、逆はあずかり知らぬでは。いや、その為の非正規と申しても「今年だけ」なんて勝手な都合にいい人材が得られるか。

のみならず、少し前までは自由な往来が許される中にあって、選ぶ方も選ばれる方もそれなりの心づもりで入園を迎えていたはずが、数日前に手渡される一枚の名簿。初対面の園児と保護者を相手に悪戦苦闘を強いられる園側。そう、今や入園の申込は「自動的」に処理されて。

満たずとも保育士分の助成はキチンと手当されている、との答弁もどことなくカラクリがありそうに見え。そんな時は不思議と仕草に現れるもの、見逃さぬ市議にかみあわぬ答弁。何よりもそこまで順調ならば現場の悲鳴は聞こえてくるはずもなく。過剰な保育士を抱えるは無駄と知れども当事者の苦悩すら知らぬようでは役人こそ無駄と思われても。

そもそもに「落ちた死ね」が扇動的に報道されて青天井の財源が手当てされたあの時代。肩で風切る勢いに前のめり感はなかったか。いや、彼らには彼らなりの苦労があったやもしれず、が、やはり社会の風潮に翻弄されるあまり着地点を見失いし非は拭えず。それとてちゃんと聞く耳を立てておれば。追い風の時ほど慎重に。

(令和6月5月30日/2856回)

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2024年5月25日 (土)

信号

万一に備えて匿名性を保つ、というのが賢い選択と知るも、およそ相手に察しがついてこそ。調印から二年、既に現役を退きし二人に対して、向こうは現職の市長。今以て招かれるはよほど。

全国市議会議長会なる団体があって、当時の会長選考を巡る一幕。そこまでの過程とて紆余曲折に秘話あれどそれは棺桶まで。そう、迎えた最終局面、満場一致で横浜市が選出される見込みが突如。我こそが改革者也、討ち死に覚悟で決戦に臨まんと立候補を表明されて。てんやわんやの大騒動。

所詮は対岸の火事、知らぬ存ぜぬと逃げんとするに降りかかる火の粉。当事者同士の交渉は破局の目もあり、政令市の好、緩衝役としておぬしに。いや、何も本市にあらずとも相模原とて。なに、議長が辞職?この肝心な時に。ということで、説得に何度現地に足を運んだことか。何せ既に内定している人事を覆さんと自ら手を上げるような変人。当時、示された条件の一つが職員の派遣。それも費用は派遣側の負担。つまり派遣される側、横浜市にとってはタダで。

人口数万人の御当地にとっては安からぬ負担なれど、必ずやわが市の為に、との本人の想い。あれから二年、当時の議長から市長への転身を図られ。その期間を更に延長されるとか。変人にはそちらが向いとるとは言わなんだが。水を得た魚が如く辣腕を振るっておられる様子にて。

さて、四年に一度の海外視察の年。意向調査に「不参加」との回答寄せるに他会派から。最大会派にあって一枚岩にあらずとはこれいかに。いや、こちとて何も趣旨に反対するものに非ず。むしろ為替相場に物価高なる状況下にあって大幅増額すべしと声高々に公言しとるのだから逆賊呼ばわりは甚だ心外。容認派どころか積極的推進派にあって内政干渉もいいところ。批判を押さえんと画策する行為自体が負い目の証拠だったりもして。

全会派の合意を得たはずが、批判を寄せる、それもタウン紙などに堂々と投稿寄せる奇人ありて。言語道断、紛糾すれど、所詮は言ったもん勝ち、やったもん勝ち。その後の処分は耳にすることなく。以降、猜疑心だけ増幅されて迎えた今年。行かぬ人も批判せぬようにとの踏み絵というか、未だそんな確認を。そう、賛同したとは申せ、昨今の世情を見るに、というのが本音に近いところか。会派によっては派遣の人数を絞ってみたり、村の総意として不参加を決め込む中に無言貫いてこそ信義と。

いや、行かねば損、などと野暮になく。不参加とあらばそれだけの費用が「浮く」訳でそれを手柄とばかり善人ぶるつもりとて。ただ行かずと許されるならば、ってだけの話。そっとしておいて下されば何ら。弾圧されるに抵抗してみたくもなるが人の心理。不参加の意思表明に何もそこまで、というのが。

赤信号みなで渡れば怖くない的な発想の最たるもので。赤信号を渡るに咎めはせぬ。されど、何も好んで他人を巻き込まずとも。いや、あくまでもたとえ話、信号は守るに限る。自らは見て見ぬフリなれど他人の行為は見逃せぬ、とは何ともさもしい面々にあるまいか、と言いたいだけで。

(令和6月5月25日/2855回)

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2024年5月20日 (月)

頂点

旅先の土産は賄賂か否か。せめてそんな時位は世話になりし担任に、との助言むなしく。一切禁止が規則、と孫から窘められ、と町会長。

所変わって運動会。望まずと来賓として迎えられるにさすがに手ぶらは。子らの為に尽くす先生方へのささやかな謝礼、それとてあくまでも善意なれど、受け取れぬ、と学校側。いや、しかし、どこぞの学校では。分かれる対応。「固辞」が原則なれど、その限りにあらず、との方針がかえって。

そこに差が生ずるに逆に求められとる気が、なんてのは個人の勝手な妄想に近く。何食わぬ顔で甘んじておればいいだけの話なのだけれども、そんな慣習は廃止すべき、なんて騒ぐ輩に市教委まで振り回されて。「固辞」などとカタイこと言わずに「気遣い無用、されど善意は拒まぬ」とでもしておかば。まぁほんとにせちがらい世の中にあって、嫉妬心とはかくも厄介なもの也。

閑話休題。民族、宗教を巡る対立は今に始まったものになく。緊迫の中東情勢。利用「した」か「された」か、あの傲慢な作曲家と独裁者の間柄は世に知られたところにて、あえて禁忌を破りし指揮者の逸話はいつぞやの通り。

あくまでもアンコールゆえ、いやなら退席も止めぬ、曲に罪なく、ただ純粋にこの曲を、と選択を委ねるに退席は数人。演奏後は割れんばかりの拍手に包まれるも、翌日以降はマスコミの批判にさらされ。がっかりした、とは本人の述懐。

十五歳の当時、マイアミのゴルフ場に貼られし一文、「ユダヤ人、黒人、犬お断り」を例に。あれから六十年、黒人の大統領が誕生する時代にあって、人種、宗教への偏見と音楽について独自の見解を披歴しておられ。著書に語られるはワーグナーとの関係。そして、約三百年に渡る音楽的思考の頂点に立つのがその人物と評価を寄せて。

読むは「恋愛」のみならず、目下、当代の名指揮者がこぞってその作曲家を語り尽くす一冊を。当人の指揮者としての名声は当時から広く知れ渡るところなれど、作曲家としての評判や。英国ではほんの少し前まで「冗談扱い」だったとはある指揮者の談であって、歯に衣着せぬ論評に学ぶ曲の深淵。

市制は百年なれどこちらは開館二十年。当時、こけら落としに選ばれし当人の曲を巡り、市に再考を迫るは今は亡きKセンセイ。彼もまた狂信的な信者にて、当該の作曲家に異論なくも曲番がダメだと。でも、さすがに変わらなかったな。グスタフ・マーラー交響曲第八番。

私などはさすがにストラヴィンスキーほどの拒絶感は抱かぬにせよ、兎にも角にも「長い」というのが偽らざる感想であって、当代の名指揮者らもやはり最初は。彼らを迷わせるは楽譜に記されし本人の注釈。その意図はなんぞやと思案する中にあって生まれる解釈が曲を全く別なものに。とするとこれまで長くて「退屈」だったあの曲とて実は。

サマーミューザも販売開始。ちゃんと当人の曲も含まれ。演目は七番。挑むはあの指揮者。果たしてその解釈やいかに。

(令和6月5月20日/2854回)

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2024年5月15日 (水)

綱引

異動後、初めての庁内会議。局長以下、顔合わせ等の重要な意味を有する初会合に遅参ならぬ欠席とは大物の証。あの彼がなぜ、今の役職とて似つかわぬ、というに、更に上の役職を狙いそうな勢い、とか。

いや、本人にすれば当然、とその気でおられたやもしれず。更なる昇進に欠かせぬは市議の口利き、と本人が思ったか否か。数軒隣りのテントまで押しかけて、腕を掴まれたまま。さながら署に連行される犯人が如く。さ、さ、こちらで、との自宅に招き入れるかの歓迎ぶり。段ボールをテーブルに見立て並ぶ豊富な酒類、どこに隠していたのか、崎陽軒のシュウマイ弁当を酒の肴に。

当人曰く、仕事の要諦は「出来るものはやる、が、出来ぬものはやらぬ。そこに尽きる」と豪語するも、いや、白を黒にしてこそ、と言いかけて。いや、私なんぞは野球部の出身にて学年が一つ違わば上の命令は絶対と、その割には局長よりも。言わずと知れたH部長。

昔ながらの大企業にあって連帯を保つに欠かせぬは福利厚生、その中でも。家庭を顧みず会社の為に尽くすことこそ美徳とされた時代にあって、せめて年に一回でも家族との時間を、と。

今や子は両親がともに育てる、いや、社会が育てるなどという時代。春休みに旅行でも、と父親を演じるに余計な口を挟むなと妻に窘められ。そんな独身族にとっては人事異動に離れた職場にあって再会の場ともなり。

集団よりも個が優先されがちな今日、薄れゆく価値観。少なくとも私は大賛成。数年ぶりの職員運動会が行われ。

こちとて親子水入らずの中にズケズケと介入はせぬ。そう、誘いを受けるはその局にて。ちゃんとTシャツも用意してあると。呼ばれたからには手ぶらでは行かぬし、どこの局とて課題を知り得る身、ちゃんと自らの役回り位は。

ヤンチャな連中が大半を占める中に迎えるは新任の局長。畑違いもいいところ、それも主計上がりと聞かば任務はそこしか浮かばぬ。既に十分に疲弊した現場にあってこれ以上。募る現場の不安。が、そんな事情は向こうとて同じ。自らの役職こそ上なれど現場の荒くれ者たちを相手に一揆など起こされては。互いに掴めぬ相手との距離感。そう、キャッチボールの舞台こそ。

が、連行されて以降、帰るに帰れぬH部長の独演会。業を煮やした現場のMさん、センセイ、出番、と救いの手。運動会といえばその種目。局別対抗の綱引。下馬評の通りの勝ち上がりを見せ、迎えるは準決勝。相手は上下水道。確かにヤツやも腕自慢を抱えているだけに侮れぬ相手。そうか、オレの出番か。昔は力自慢でならしたこの腕力で。ましてや私服とあらば見分けはつかず、ゼッケンさえ借りてしまえば。いや、光る監視の目は盗めず。

それでも勝利して迎えた決勝の相手や。庁内屈指のあの部局。いや、さすがに奴らは腕立て伏せが仕事のようなものにて万が一にも。いや、個人戦ならばそうかもしれぬ、が、団体戦とあらば。そこに綱を握るは新局長。どう見ても腕力よりは頭脳にしか見えんのだけれども自ら現場の最前線に立たんとするその心意気やよし。そこに生まれるは一体感。

優勝胴上げが何ともいい雰囲気で。あとは心配いらぬ、か。

(令和6月5月15日/2853回)

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2024年5月10日 (金)

恋愛

今も昔も人の関心は不老長寿と健康にあり。謀反の罪にて投獄されるは名医、華佗。上の目を盗みて囚人に親切施す獄卒。断頭台を控えた前日に恩返しと渡される一冊こそ秘伝の。

持ち帰りて妻に語る事の経緯。極意を手に医の道を志さんと告げし翌朝、妻に燃やされるは青嚢の書。何とバカなことを、と詰め寄る亭主に妻がひと言。今ふたたびの悲劇を繰り返す気か、と。三国志の一話。妻に見つからねば、今日はそんな話。

旧家にあって長兄にあらずんば。放蕩の限りを尽くし、か否か。芸は多岐に秀で、趣味は人後に落ちず。孫に恵まれ、何一つ不自由なき幸せな余生、のはず。久々の来訪に持参いただく一冊。「謹呈」と自筆によるサイン本にて売るに売れず、とは冗談也。

自ら生きた証と自伝の類が綴られること少なからずも得てして当人に都合よき美談として。のみならず、実名とあらばあらぬ誤解を招く元凶にもなりかねず。ウソでもその一文さえあれば。当作品はフィクションであり云々。

着想得るは二年前、八十迎えるに、と当人が挑むは小説。それも「恋愛」。書くに欠かせぬは経験。自らの体験を世に問わんとばかり。日夜、書斎にてコツコツと積み上げし原稿。そこに細心の注意を払いしはずが、完成を目前に奥方に見つかってしまい。二日間、口を利いてもらえず、と本人。

チラつくは離婚、いや、それ以上に肝心の原稿が。もはやこれまで、との窮地を救うは御令嬢。原稿一読の上、絶対に出版すべし、資金とて私が、と出版社との交渉に。晴れて日の目を。究極の恋愛小説、とオビに記されし本の一話に描かれるは「初恋」。雷に打たれたかの如き衝撃。胸に鳴り響くはその曲。まさに「運命」の人とばかり。

バカ正直に貫かれるは一途な想い。されど望めども叶わぬが恋なるもので。彼女が居らぬ人生など何ら意味を為さぬ、と傷心の日々。純粋な作者、いや、「架空」の主人公が思い詰めて選ぶはその道。投身を図らんと崖上に立つ本人を踏みとどまらせるは。ネタバレにて何かは言わぬ、が、やはりそれだけの価値がある、と私も信じてやまず。

そう、既に金婚を終えた夫婦間にあってその位ならば何もそこまでこじれずと。いやいや、そこに「究極」の名が付く以上は期待外れに終わらせず。第二部に描かれるはその後。なれそめと婚後の日常。時に官能小説ばりの生々しき描写に描かれるは睦まじき夫婦愛というよりも。不謹慎ながら作者が主人公に重なるに下手なベストセラーよりもよほど。

私なんぞも何度か御自宅にお招きいただいたことがあるのだけれども次回は奥様の顔を正視できぬかも。あくまでもフィクションとはいえ、老いの道楽とはかくも恐ろしき、なんて。そんな縁なくば巡り合わぬ珠玉の一冊に一筆礼状をしたためんとしてはたと気づく。感想記せども奥様の目に触れては私まで。ゆえにそっとメールで。

そう、肝心の書名や「かなしき恋」。著者は本市在住、とだけ。

(令和6月5月10日/2852回)

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2024年5月 5日 (日)

女中

忘れもせぬ、昨年のさんままつりの帰り道。通りかかるは公民館。老齢の身には家路遠く、トイレを拝借せんと中を覗くに若い着物姿の男性が一人。

はて、何を、声をかけるに、これから寄席と。寄席と申しても客一人おらんではないか。聞かば、転居してまもなく、地元にて一席、と催せどもかくの如き有様と。木戸銭位の手持ちはあるけれども、客一人ではやりにくかろう、手拭の一つでも、と義侠心に厚きKさん。そんな話を後日に聞いて。

アルテリッカしんゆり、演芸座二ツ目落語会。しんゆり在住もしくは「らしき」落語家、それも真打ちならぬ二ツ目とは粋なはからい。そこに見かける当人。演目前の枕の話題や公民館の一人寄席、とはならねども。二ツ目だけに呼ばれればどこだって。アキバのメイド喫茶に小学校の出前講座。出向く労こそ厭わねど通じぬは言葉。定番の長屋に女中。そう、女中とはメイド。そんな創意工夫はいづれ必ず。閑話休題。

その公園の入口付近の大木が大型連休に見事な花を咲かせると聞き。木の名やナンジャモンジャ。それ以外に大島桜にアメリカデイゴと普段は目にせぬ品種が。それも緑豊かな本市の北部ならぬ工場に囲まれし臨海部の一角に。なぜに。人の営みに欠かせぬは緑。埋立地、潮風に晒される中にも立派に成長する姿を後世に、と当時の担当らが。それこそがまさに「レガシー」なれど、いつしかそんな経緯も受け継がれず、忘れ去られるが常。

力士の髪結とて。稲毛神社の境内に現存する大銀杏。戦火に焼ける中にあっても新たに息吹を取り戻すはまさに御神木にふさわしく。その門前にあれだけの並木を手がけた当時の担当。そう、市役所前の銀杏並木。それも黄金比の円錐を維持した樹形は景観百選にも選ばれ。それとて本市の叡智を示す証。緑化フェアなど絶好の機会となり得たはずも、事情を知らぬ担当の指示に業者が見事に伐採。覆水盆に返らず、何とも惜しい、と地元の植物博士、ならぬ、元局長。

生態系の不思議やそこに限らず。昔からその獰猛な種族は近くに生息し。絶えず脅かされつつも共存が図られてきた歴史。当時などはそれなりの接触が図られる中に磨かれる互いの免疫。我らが現役時代などは膝つき合わせて丁々発止、とは隠居組の回想。んなエラそうな話を聞かされても実際は。中には不器用なものもおれば、それだけは断じて許さぬとばかり憤慨することもなきにしもあらずなれど、それでも今ほどまでには遠くなかった気も。掴めぬは互いの間、距離感。

いみじくも過去の質問にそのへんの極意記され。公園におけるボール利用を取り上げた野球狂のUセンセイ。本題から脱線、いや、派生して説くはキャッチボールの効能。それは野球に限った話になく、生存の上で大事な心構え、視点であり。市議会の会議録にて「心のキャッチボール」で検索を。それとてレガシーか。

(令和6月5月5日/2851回)

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