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2024年3月

2024年3月30日 (土)

石鹸

残した仕事を片付けに、とはあくまでも口実。ただ住み慣れた会社の空気に触れておきたかった、というのが。

社長たる自分がおらずとも会社は何事もなく動いている、これでよかった、と。介添え役の妻に肩を借りて部屋を出て立ち止まるは。エレベーター前にて、しばし逡巡の後、手を伸ばすは古びた階段の手すり。「ここから下りよう。彼らが仕事に使っているから」とはまさに聞かせたいひと言にあるまいか。

現行とてほぼ直通なれど「専用」にあらずば納得いかぬ、なんて言いがかりは特権意識の最たるもの。新庁舎のエレベーターに並ぶ朝の行列を見れば。彼らこそ優先に、と譲れぬものか。階段こそ選ばぬにせよ、各階に止まるエレベーターとて職員らと居合わせる中に新たな出会いや気づきがあるやもしれず。

冒頭は花王石鹸の元社長、伊藤英三を描いた小説「梅は匂い人はこころ」(城山三郎著)の序章、一段一段ゆっくりと階段を下りる中に走馬灯の如く想い返される過去。創業家一門と申してもあくまでも傍流の当人が身を置くは現場。人には必ずいいところが、との信念。周囲との胸襟開いた交流が社長への道となり。

所詮は「石ころ」ですから、と自嘲するN部長に意味聞かば。いつぞやの朝刊にそんな記事が、と。事実上の上下関係。石ころ程度にしか見られていない、との職員の声。ハラスメント防止条例の制定巡る各地の動きが紹介されて。「石ころ」と呼ぶ側も呼ばれる側も十把一絡げにされては立つ瀬なく。条例作って万事が解決するか、むしろ、条例化なる事実だけが大きく取り上げられるあまりそこが目的化しては。

よく言わば御節介。御節介とてこちらが足りぬが故の相手の善意と見れば。逆に、余計なことは言わぬに限る、と無関心を決め込むに向こうは然して困らぬ。むしろ、肝心なことを教わるべき機会を逸した当人のほうが不憫だったりもして。

何もわざわざ条例作って罰せずと今やそのへんの認識はそれなりに浸透しており。言う側も言われる側もセーフだ、アウトだ、と冗談として受け流せる職場とて少なからず。そもそもに人と接するは何かしらのストレスを抱えるということであって、その中にあれこれと学んでいくものであって、私などは彼らの適応力を信じとるけど。

日々過酷な現場に身置く彼らにとって貴重な息抜き。気心知れた仲間同士で余暇を愉しむは結構。そこに何も口うるさい市議を呼ばずとも。いやいや、市議を市議とは思わぬ連中にて。こちらを「ちゃん」付けとは職員の分際で市議をバカにしとるのか、なんて。そう、ゴルフの誘い。

そんな時に限ってあいにくの雨、のみならず霧立ち込める中にグリーン上の旗すら見えず。いや、彼らがほんと上手くてね。仕事とてその位。現場では年に数回のコンペに新人含む少なからずの人数が集うとか。そんな昭和が残る現場のほうが職員間の距離が近かったりもして。

(令和6月3月30日/2844回)

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2024年3月25日 (月)

神馬

任期は二年と思いきや、たった一年。ろくな仕事もせぬままに退任の挨拶を終えた。

入を計りて出を制す、身の丈に合わせた歳出に転換を遂げるが理想と知れど、現実は日暮れて道遠し。賭場の胴元などといわば聞こえ悪くも市には単年度七億円もの繰入を行うばかりか、今回の地震への義援金とて収益の一部のみならず関係者の善意も添えて。それでいて一部からはそんな目で見られるは何とも。議案に付される「定神馬」とは神奈川県川崎競馬組合定例会の略か。

戦後復興を目的に各地に創設された地方競馬。元々は県と市が興行主となり、「別々」に開催されてきたものが、平成十二年以降は両者の出資による一部事務組合へと移行され、今や年間六十日の開催に売上(正式には売得金というのだけれども)一千億円を超え。

そんな優良企業の取締役ならぬ副議長を仰せつかり。議員数は県三に対して市は二。諸事、出資率に負うはまた役所らしく、ゆえに議長は県議、と。当初はその役職すらも御辞退申し上げたのだけれども、やはり「副」位のほうが何かと。そんな競馬に残されし課題を二、三。

何と申しても一つは老朽化。移転先を探さんとするもあれだけの面積を市内で用意できるか。ならば、せめて厩舎だけでも、と検討進み。移動の負担、そして、何よりも興行の縁の下となる厩務員等の処遇改善を求め。

移転が浮上する理由の一つや借地料。市内の一等地にあって安からぬ負担。さりとて、その利便性こそが好業績の要因の一つにあるまいか。いや、今や売上の九割が在宅、つまりはネット経由にて。ましてや、相手方との契約や売上に応じた変動制、つまりは青天井、にて昨年度の額や。

いやいや、貸主側にすれば今はそうかもしれぬ、が、仮に逆、つまりは業績が落ち込んだ中にあっても救われるが変動の利点にあるまいか、なんて。そもそもにおぬしらの払戻金とて歩合制。売得金の七割を以て、と。閑話休題。

フルマラソンでは飽き足らず。進むはウルトラかトレイルか。二兎追わんとするもまずは目前のトレイルから。大山を含む丹沢の山々が格好の稽古場を提供してくれており。最後の調整に挑むは鍋割山。登山口から片道八キロの往復、なだらかな林道が五キロほど続き、その後はずっと上り。山頂の山小屋では山名にちなんだ鍋焼きうどんが提供されて。

ウルトラとトレイルは似て非なるもの。移動が水平ならば抵抗少なく、推進力が維持されて惰性で何とか。これが上り坂となるとそうはいかぬ、まさに「馬力」、つまりは太股の筋力を必要とし。そればかりか、足下が水平とは限らず、同じ距離とて疲労度は平地の倍以上。平衡を維持せんとするに磨かれる体感。ゆえにシューズとて靴底堅く凹凸にふんばりの効いた一足を。

この山さえ越さば、と森を抜けるに眼前に広がるはゴールならぬ斜面。その絶望感たるや。さながら、打たれても怯まずに前に出るボクサーが如く。いや、ほんとに身体面以上に精神面が磨かれますゆえ。ウルトラはウルトラで別な過酷さがあるのだけど、それはまたいづれ。

(令和6月3月25日/2843回)

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2024年3月20日 (水)

桜餅

当日の夕刻に見かけるは「完売」の二字。機を逸すれども月内は継続と聞いて立ち寄るに。あった、桜餅。卒入学に欠かせぬは紅白饅頭。忙しそうで、と店主に水を向けるに、今や注文なく、その理由やアレルギー有する生徒への配慮とか。当該生徒に罪あらず、何も全体でそう決めずとも。せちがらい世の中で。

新庁舎の見学が絶えぬとか。それだけの税を投じた以上、中の使い勝手とて向上して然るべきのはずが。上席の電話が鳴らば誰かが応ずる、というのがこれまでの常識。職員録に記されし番号を回すに表示されるは不在転送の文字、転送と見れば留守電もしくは他の誰かが、と期待すれども応じる気配なく。いや、たまたま周囲に人が居なかっただけの話。しばし後には、いや、他局ならば、と鳴らせども。

そう、移転後に配布されるは携帯型の通話機にて自席に居らずとも。今までの伝言の煩わしさも解消、というけれども肌身離さず持ち歩くに気が休まらぬ。会議中とて振動あらば注意はそちらに向く訳で。仮に取れずともちゃんと相手の履歴が残るゆえ折り返しが可能というけれど、五分と待てぬが市議。ほんの一分、伝えたいことも伝えられぬ、肝心な情報を提供せんとすれども、もう知らぬ、なんて。

対する向こうとて、市議からの着信とあらば再三再四。それが会派の代表番号ならば受付もしくは部屋内の誰かが応じるのだが、鳴るは机上の直通。とにかくうるさくてかなわぬ。何度かけても繋がらぬ電話に「双方」に募る鬱憤。そればかりか鳴り止まぬ隣りの電話に周囲とて。そんな状況でいい話など出来るかね。

最新鋭の機器を導入した本庁よりもそのへんに無縁な現場のほうが。「所長はいるかね」「あっ、向こうに。今、こちらに向かってます。早足で」なんてほうが、人間味があって。

一向に鳴り止まぬはこちらも同じ。喚問と申しても目的やそこにあらず。応じねば卑怯だ、応じれば対応が遅い、弁明を聞かば回答にならぬ、謝罪すれば責任を、と。何を申しても否定されると知らば、知らぬ存ぜぬ、になるのもむべなるかな。その陰湿さや学校のイジメに劣らぬ。

口を開かば相手の批判しか出来ぬ当人の精神構造を心配してみるも。やはり、卑屈になるには卑屈になるだけの理由がある訳で。とりわけ、幼少の境遇、それも貧富以上に情緒面、つまりは周囲の人物に負うところが大きく。自らの存在を他に認めて欲しい承認欲求の現れ。情の不足か。

いや、政権側とて綱紀粛正、国民の信頼を、と必死に訴えれども通じぬ誠意。対する野党方とて本人たちの狙いとは裏腹に上がらぬ支持率。自ら墓穴、というか周囲に対する嫉妬心、そうとしか物事を見れぬ大人を量産しとるようなもので。いつまでも重箱の隅を突くような議論は聞くに堪えず。

単なる不記載と侮ることなかれ、法に抜け道、逸脱した非は詫びねばならぬ。が、日々それだけの時間を費やす位ならばもそっと他に。国会たる役目とは何ぞや、と問いかけてみたくも。やればやるほどに悪循環に陥る事例とて少なからず。そこが見えないと。

(令和6月3月20日/2842回)

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2024年3月15日 (金)

盲信

たまには顔を、との声受けて訪ねるに農作業の小休憩と重なり。茶に添えられるは韓国風の海苔巻きとたくあん。どうぞ手を付けて、と言われてほおばるに口に余韻残るは、にがみ。菜花ならぬ蕗の薹か、春だナ。

久々に同席したピアニストにぶつけるはかねての疑問。アルゲリッチを聴くべきか。往年は言わずもがなも、今や「それなり」の年齢となられ。老いて醜態を晒す位ならば絶頂期の記憶そのままに身を退く、というのが一般の感覚のはず。現役にこだわり続ける理由やいかに。というか、チケット代は当時と変わらず。その妥当性やいかに、というのが。

老いこそ否めぬも当人ならではの技巧は今も健在にて他では聴けぬ、ぜひ、「今」を聴くべし、と背中を押されるもそこに気づくだけの耳があるのだろうか、なんて。

地元の美術展を訪ねた際に耳にせし隣りの会話。これだけの作品がそろうのだから、こんな貸館の一間ならぬ専用の市民ギャラリーがあっても、と。確かにそれだけの作品群を生み出せる人材抱えるは当区位なもの、との自負心や分からんでもないが、我ら以外におるまい、となると。作品の価値を判断するはあくまでも。

わが傑作を市に、との申出。およそその手の話は純粋な善意のみとは限らず。役所側とてそれが当人の精魂込めた力作であることは否定せぬ、さりとて、その作品が人を集めるだけの価値を有するか、と問われれば。ましてや寄贈となると粗末には扱えぬ。立派な陳列棚に照明、湿度の管理と作品の解説を添えて諸々、ということでその内心や。

面と向かっていえぬは立場の違い、そこを察するが大人というものにあるまいか。相手の盲信とて手に負えぬ、が、それにも増していかなる作品であろうとも「貰い受けれぬ」との頑固な、いや、それが過ぎたる市の姿勢には伏線があって。

予算書をめくるに目に留まるはその関連。そう、あの時も。水没する収蔵品。収蔵庫を地下におくなんぞ、あるまじき市の瑕疵にて折角の寄贈の品々を何と心得る、云々と迫られれば。日夜、修復の作業に徹する彼らに罪なく、額の妥当性こそ問わぬまでもそこに計上されし予算額や二億を下らず。

それもあくまでも単年度の話であって、終わりが見えぬ。いや、仮に修復を終えたにせよ、それが日の目を見る可能性やいかほどか。それも贖罪の念や既に手がけた以上は後戻り出来ぬとの「しがらみ」によるものとすれば、この期に及んで、と別案が脳裏よぎるは私のみにあるまい。

いや、それがピカソならば世が放っておかぬ。地下の収蔵庫に放置されたままとはつまりはそういうことにて。市が頭を下げて貰い受けたものならばまだしも、向こうからの申出を受諾したものとて。生まば全ては過去のもの、あとは野となれ山となれ位の矜持があっても。

少なくとも貸した分は忘れ、借りた恩は終生忘れぬというのが。そりゃ金銭哲学か。

(令和6月3月15日/2841回)

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2024年3月10日 (日)

烙印

贔屓の作家の訃報を「最近」知るに手にした一冊。最愛の妻を失いし失意の中にふてくされる主人公がその人との邂逅を通して日常を取り戻していく。「いねむり先生」と申してもどこぞの市議の話にあらず。そう、坊や哲、その人にてこの御仁の作品もほぼすべからく。

多くの思い出残し学び舎に別れ告げるに快く見送るが在校生。せめてそんな時位は。歴史に残る一戦を交えし局長への餞別。自らの質問中、クラシックの作曲家になぞらえるに今は亡き往年のKセンセイが如くとの評。だってそのままに当時の話の引用に過ぎず。Kセンセイとも浅からぬ因縁。ぴったりの表現を用いるにセンセイとて。何を言ったか、会議録の検索にて「ブルックナー」と。

それは確かに弁明の余地なき役所の過失、もしくは不可抗力なれど、事が浮上するたびに、寄ってたかって叱責するなんぞ。両親から責められてはグレるが子の心理。父が厳格ならば母は包容力を。やはりどこかしらに逃げ道が。

何ら苦労なきおぬしには彼らの心境など、とは妻。いや、悩みなきがゆえに他人に寄り添えるのであって。当人が悩んでいては他人の手助けなど。いや、あくまでもそう「見える」だけの話。どこに悩みなきめでたい御仁など。

ということで、本日の話題。そもそもに、不登校なんぞはゲートに入らぬ競走馬に同じ、尻を叩いてでも。言語を有する人とあらば叩かずと。大人の仕事に同じ、それが本分である以上、いかなる理由があろうとも。それが単に「気が向かぬ」など理由になるか、それを放置する親とて過保護以外の何物でもなく。とは昭和の価値観。

行かぬ自由を貫くは当人の勝手なれど、因果応報、そのツケはいづれ自らが払わねばならぬ、と冷たくあしらう向きもあるやもしれぬ。いや、私とて当事者の復帰に手を貸す労は惜しまねど、少なくとも当事者側とて集団に順応せんとの意欲なくば、なんて他人行儀な視点で眺めていたのだけれども。今回の予算審査特別委員会にて耳にするは同部屋の各務雅彦君(多摩区)の質問。いっそ、不登校なる言葉の使用を廃止すれば、と教育長に詰め寄っておられ。

言葉なくさば確かに「消える」、が、それはあくまでも表面上の話にて根本的な解決には程遠く、と当初は私も。されど、理由を聴くに、その言葉自体が持つ響きが彼らを呪縛しておらぬか、との投げかけ。確かに不登校といわば「わがまま」な生徒であって、どこか人間性に足りぬところがあるかの如く見えたりもし。私ならば一顧だにせぬも、そりゃ苦労なき半生の産物、そもそもにそんな無神経ならば。ぐさりと刺さる妻の一言。

不登校なる烙印を押されし当事者の苦悩。復帰するにも周囲の冷やかな視線に晒されかねぬとの恐怖心。受入側に寛容な姿勢を育むこととて決して損にはならず。虚実皮膜、まさに紙一重のそこにこそ核心があったりするもので。役所の追従的な質問多き中にあって、新たな気づきを与えてくれる質問というのは。

こんな仕事をやっとるとついつい。目線は低く。

(令和6月3月10日/2840回)

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2024年3月 5日 (火)

二兎

イップス、などと高校生に笑われるは心外、今に見ておれ、目にものを、と意気込めどもこればかりはランと違って「いつでも」「どこでも」とはいかず。照明まぶしき練習場に、夜の八時以降にスーツ姿で現れて、格好そのままにワイシャツの袖をまくり上げ、眉間に皺寄せて振っているバカがいたら、私。

それでいて刻一刻と迫る予選会にランの練習量とて減らす訳にいかず。寝る間も惜しんで。そんな日々を続けるに生じる違和感、というか「肘痛」。生来、備わりし回復力に一夜寝れば、いや、今やそこまで若からず、二夜、三夜、と費やさば「元に戻る」というのが、この間に学んだ経験。

一日の長ありしランにおいて膝の故障は致命傷になりかねず、ただただ静養あるのみ、と知るに肘と膝の類似性や。痛み生ぜし原因は何か、いかに治すか、限界を知り、あれこれと煩悶するもスポーツの魅力。ランとゴルフの二刀流。そう、あの当時も。

政令市にあって地下鉄を有せぬは恥、なんて意味不明な理屈がまかり通りし時代。当時は本市単独の地下鉄計画、縦貫鉄道なんて構想があったから。一兎といわず二兎を、と質問ぶつけるに、二兎の結末は格言の通り、表現を変えたほうが、って。いや、酒だってちゃんと「二兎」なる銘柄が、旨いんだよナ、これが。

話を整理するに、JR南武線の武蔵小杉駅以南の高架化を画策する本市には隣市の、かたや、自営地下鉄の延伸を目論む向こうには本市の協力が不可欠、と新たな二兎が合意され。かねて地元の悲願にて一歩踏み出したことに大きな期待が寄せられ。「開業いつぞな」と聞かれるに、「およそ十年、生きてその目で」と高齢者を鼓舞してきた訳で。

既にあれから五年、情報が途絶えるに駆られる不安。様々な憶測を呼ぶ中に飛び交うは「三年」の延期。折しも来年度予算の審査が迫る中にあって、何をまごついておるのか。根拠なき三年の信憑性を確かめるべく担当に迫らば、国の認可が下りぬ。何を今さら。

資材の高騰にコロナ以降の需要の低下等、収支が見込めぬ。まずは赤字を何とか、というけれども、それを解消する為に延伸を図るのであって、順序が逆。が、悲しいかな、んな発想は役人に通じず。ならば、国の認可基準と現行の計画にいかほどの乖離があるのか、それが百億単位なのか、一千億単位なのか、工事費なのか開業後の収支なのか、と詰め寄れど。

あくまでも事業主体は横浜市。国との交渉はそちらにて本市が口挟むも憚られるとか。金を出す以上は口も当然とばかりに、様々な想定の下、計画の再考を促され。将来の需要などと申しても誰が今回のコロナなど予測できたか。この手の話は「えいやっ」と決断を下す中にこそ道が拓ける訳で。一年で埋まらぬ溝は三年待とうが。

この期に及んで、計画に示されし年次の開業はもはや不可能、「延期」と知らされるに寿命縮まり、日本一の返上、なんて。

(令和6月3月5日/2839回)

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