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2024年2月

2024年2月29日 (木)

閏年

欠席の同級生に給食のパンを届けるようなもの。どうせ帰路の途中であるし、その位は私が、と請け負いて目にするは、昭和の長屋が如き住まいに肩寄せ合って暮らす家族。わざわざ御足労を、どうぞ上がって夕食でも、と。

届けるは当時の議長、自宅に迎えるは市の職員なれど、そんな厚意に甘えるべきか否か。逡巡の末、居間に上がりし当人の為に幼子が自らの席を譲ってくれて、今となっては昔の話だが、と元議長。もてなすも、もてなされるも互いの人柄。いい話だナ。

そう、「あの日」の十九番ホールにて隣り合わせしSさん。小学生の孫がデビューを果たすとかで、記念すべき初打ちを一緒にどうか、との誘い。いや、当人は誰しもが認める腕前、私なんぞは足手まといになりかねず。ならば、別な目的でも。

オレはエラい市議を知っとるぞ、と自らの人脈を誇示するには孫の年齢が年齢であるし。むしろ、私のしょぼい腕では子供にバカにされかねず。ただ、そんなほのぼのとした場に呼んでもらえるとは何とも光栄な話。

それだけ多くの足を動かすにはどうすれば、とカエルに聞かれた途端に足がもつれるムカデの話は有名なれど、折角の助言を無視するはしのびなく。「全て」「忠実に」「実行せし」姿とは。何も隠すものにあらず、勝手に撮っていただいて結構と同伴者に告げ、見せられるスマホの動画。おい、全く動かんではないか、写真ならぬ動画だぞ。

いや、ちゃんと再生マークあり、よく見れば何やらもぞもぞしとる様子は窺い知れるも待つこと三分にして。私の認識ではほんの十秒程度としか。とんだ迷惑な話。練習相手の高校生N君なんぞは動画を見るにイップスだ、と大爆笑だったらしく。おい、人が真剣にやっとるに笑うとは何事か。

閑話休題。隣地に埋設されし配管の撤去を地権者から求められ。それとて何も故意に財産権を侵害したものにあらず、昔からそうなっていただけの話、今すぐどけと言われても。当人とて決してそれでいいとは思っておらず、いづれやらねば。

さりとて、現状のまま行わば本管までの距離長く。せめて「もう少し」本管が延長されれば自己負担も軽く。そのへんを市議の力で何とか、と。あくまでも公道上にあることが前提。そして、そこに合理性がなければ。何とか頼む、と拝み倒すに市が折れて。めでたし、となるはずも。完成まで三年と告げられるに、そんなに待てぬ、民間ならば、と陳情主。

三年の内訳を聞かば。専門の業者に委託して工事費を算出するに一年。が、その前に委託の為の予算の申請に一年、そして、実際の工事、と都合三年。それも順当にいっての話。市側とて公費で実施してやるのだから、わがままを言うな、というのが本音であって、確かにその通りなのだけれども。

待てぬと申した陳情主に、待てぬならば自費で、ともらした一言が相手の癪に障ったらしく。両者を宥めるにまた一つ仕事が増え。折角の善処を生かしきれぬとは何とも惜しく。

(令和6月2月29日/2838回)

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2024年2月25日 (日)

主菜

コース料理に同じ。まずは前菜、一皿、二皿続いて主菜となるべきも。主菜二つを並べしシェフ、ならぬマエストロの意図。一つは「田園」、そう、誰しもが一度は聴いたあの曲、ベートーヴェンの交響曲第六番。そして、もう一つの主菜。

当時、それが二十世紀屈指の名曲とはにわかに信じがたく、演奏時間が長からぬのがせめてもの救い、不協和音にしか。バレエ音楽を源流とするロシアにあって気鋭の作曲家。初演の舞台やパリのシャンゼリゼ劇場。「頭がイカれてる」「天才だ」「音が聞こえぬゆえ静かに」との批評はサン=サーンス、ラヴェル、ドビュッシーとされ。大御所にしてそんな状況なのだから聴衆が暴徒化するのも。

私をこの世界に誘いしKセンセイとはこの曲を巡り最後まで。前衛と解釈すれば腑には落ち、との私に対して、前衛ならぬ保守だ、と譲らぬ相手。これが保守とは未だ分からぬ境地なれど、古典の王道を相手に劣らぬ、どころか。古典と前衛の対比こそ指揮者の狙いにあるまいか。ハルサイことストラヴィンスキーの「春の祭典」。やはり「屈指」かも。

曲を巡る争いはそれに限らず。あの独裁者の心酔は知られたところにて彼の曲を国内にて演奏するは断じて許さぬ、と政府筋。さりとて、曲に罪なく、聴く機会すら奪われるは何とも惜しい。嫌なら退席とて御自由に。騒然とする会場を静めるに数十分を要したとか。指揮者バレンボイムが選びし一曲はワーグナー。確かに「結婚行進曲」など。

閑話休題。月一回のコンペに「たまたま」出席の返事すれば、あいにくの。朝に中止の連絡が来ぬ以上は。現地に向かわんとするにすれ違うは市の清掃車。選べぬ天気。彼らは雨であっても。キャディの確保とて然り、かつては生じたはずの違約金も今や一番ティーに立たぬ限りは生じぬそうで、そこの心配こそ消えれども。安からぬ対価を払う以上は雨の中なんてのは。

事実、駐車場の車などごくわずか、コース上にプレイヤーの姿なく、内心は「全員」が中止を願っていたはずで。会長に向けられる視線。されど、ここで解散と宣言するに。帰るに帰れぬ、帰れども亭主なんぞは家の御荷物なのだから。とすると一日の居場所なく、予定を入れた以上は。と複雑な胸中を察してか、ならば希望者のみ、と下される結論に帰宅を選択する参加者おらず。雨の中を最終ホールどころか十九番ホール、つまりは反省会まで。

借りたものはきちんと片付け。んな時くらいは協力の姿勢を。年に一回の校庭の側溝掃除、いわゆる「どぶさらい」に伺えども人の気配なく。確か今日だったはず、と相手の携帯を鳴らせども応答なく。帰るに帰れぬは雨のゴルフに同じ。その格好のままにランに興じるに気づく異変。そこにあったはずの街路樹が。ただでさえ幅員狭き歩道にあって街路樹にその樹種を選びし見識の低さ。今や立派な胴回りにて撤去するにも。あの中古車店の心境とて。

緑化フェアの到来に何も増やすばかりが能になく。ちゃんと市民目線で市の仕事ぶりを見ておりますゆえ。いや、帰るに帰れぬ。いつも居場所がないだけで。

(令和6月2月25日/2837回)

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2024年2月20日 (火)

大人

罪状によらば、質問書の案文など議員の質問に資する文章を作成し、その情報を議員に提供した、その回数述べ十四回云々と。将来を目されし人物の栄光と挫折。調査対象が別ならば私だって。というか、市長の関与をにおわせたあのメモの流出こそ本命。あとはおまけか。

ただでさえ尾ひれ付きがちなその手の話にあって、追い詰めるにはちと。紛糾の委員会に再調査を約束させて矛をおさめたつもりが、再調査は再調査でも彼らの狙いや。それこそが人の心理というもので。嫌疑不十分につき、どころか、越えてはならぬ一線、だったりもして。

知己得る当時の肩書は主任だったはず。兎にも角にもキャラが立ち過ぎてか異動を重ねてその部門にいることは存じ上げていたのだけれども、ちょうど一月ばかり前、帰りの南武線にて隣席に並ぶにどことなく。そこに司直の手が迫っていたとは露知らず。

検討の指示は購入を意味するか否か。前例踏襲こそが文化の役所にあって新規参入に高い壁。話すら聞いて貰えぬとの声とて少なからず。そこを口利きで何とか。向こうとて市議の紹介とあらば無碍には出来ず、第一関門だけは。

既存の業者だけではそれこそが癒着などと疑われかねず、視野広く選択肢は多い方が。そりゃ口利きと申しても中には恫喝じみたものや、受け手側にそう思わせてしまうものもあるやもしれぬ。が、そこは大人の世界。頼む方とて頼まれる方とて。そこにはある程度の自制心が働くのがこの世界。

相手の立場を斟酌すれば両者ともそれなりのところで。そこに痛くもない腹を探られ。これこそが私物化の証拠とばかりに。公の場、常任委員会にて鬼の首を取ったが如く騒がば、その後の展開は予測できそうなものなれど。

上からの圧力への抵抗があったのやもしれぬ。が、あくまでも備忘録的なメモが付されしその文書が「怪」文書ならぬ「公」文書として誰しもが見れるところに置かれていた訳で。議員に提供したとされる本人は当時の経緯など知る由もなく。着任後にたまたま目にした文書。

賢い役人ならば、不都合なことは知らぬに限る。見なかったことに、いや、聞かなかったことに、とは大人の対応。故意に内部文書を流出させた罪とて消せるものではないけれどもそんな文書を公文書として残した責任とて重罪だと思うけど。

いや、入手側とてそんな世界に生きとるのだから当人の意を酌みつつも適当な着地点を見つけることとて出来なんだか。異なる立場の二人がそろってアクセルを踏んでは。信頼するほうされるほう、人を見る目こそ。いや、んな罪人といえども、その一事を以て人格まで否定されるものになく、たまたま人に恵まれなかっただけの話。

今回の一件に広がる波紋。市議と職員、遠ざかる両者の距離に、組織が畏縮せぬかとの懸念。折角の部活動とて不適切などと自粛されるに不利益を被るは私だけかも。大山騒いで鼠一匹。鼠とは失礼ながら。以降はそんな視線に晒されながら余生を過ごすのだろうけど、それだけの才能を埋もれさせるは何とも惜しく。刑期を終えたらメシでも行こう。

(令和6月2月20日/2836回)

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2024年2月15日 (木)

五番

狙い夜に定めるは盗人に限らず。人目を避けんとするに。いや、こちとら人目は気にせず、たまたまそこしか。本来の専門はこちらにて、んな日に百球なんぞ。

夜ランの途中に前方に浮かび上がる人影。後頭部、いや、失礼、あの背格好はその人しか。腕の振り見れば本人はランのつもりかもしれぬ、が、どう見ても。こちらのペースを落とさば必ず。無視は失礼、追い越し際に一言かけるに、おい、ちょっと待て、と言いたげな様子も。

そう、かつての相棒、元副議長のHセンセイ。昨年四月に退かれた身なれど未だ通夜等にてお見かけすること少なからず。義理固いよな。大概、向こうから声をかけて下さるに。こんど酒でも、なんて水を向けようものなら。やはり相手がいるというのは人生の宝。

「補欠」と知ってか知らずか、向こうの勧誘に応じて以降。月一回およそ三十キロのコースを走り風呂とメシをともにして解散、とただそれだけの部活動なのだが。フルの距離とて全く気にせぬ面々、走る以上にずっと口が回っとるのだからいっそ部名を変えたほうが。まぁそんな時の話題というのはおよそ。話が知られてはそちらの立場も。いや、もう既に。そう、近々どこぞの女性市議を新入部員として迎えるとか。

昨今なんぞ患者が必死に症状を訴えとるというに向く方向は机上のパソコン。やはり、問診、視診、触診こそが医者の原点。いや、それは追い越し際にペースを緩めるようなもの。次なる患者が待ちわびとる以上は余計な話は聞かぬに限る、んな言い分は分からんでもないが、診察に患者を一瞥もせぬはさすがに。そこが歯科医となるとそうはいかず。そんな人物が遊び仲間の一人にてヴァイオリンを趣味とし。

誘われし演奏会にてベートーヴェンの五番、と申しても「運命」ならぬ「春」、そう、ヴァイオリンソナタを聴いた。ピアノの名手とされたベートーヴェン。ピアノが主体の時代にあってヴァイオリンをそれと対等、いや、前面に押し出した演奏形態、いわゆるヴァイオリンソナタなる新境地を拓いた功績や特筆に値するもので。ピアノならば「悲愴」「月光」「熱情」が三大とされるも、ヴァイオリンならばこの「春」か「クロイツェル」か。ちなみにクロイツェルは九番。マニア過ぎたか。

そう、市の情報提供に高石歩道橋下の渋滞対策を講じる、と見かけた。どこだそれ、って。うちの近所の交差点。「計画にない」「買収が困難」「鋭意努力」など聞き飽きた。余計な弁明はいらぬ、ただ、実行あるのみ。渋滞は短く、そして、質問も、と最短で終わらせどもちゃんとこちらの意を酌んで。何も拡幅ばかりが能にあらず。現行の幅員とて線形を多少ズラすだけで生まれる退避空間。道路いじるに警察の協力欠かせず、そのへんの連携が以前に比べ格段に。

踏切と近接する信号がちぐはぐであって、自動運転の時代にそんなバカな話があるかっ、と机を叩かば早速に翌月から交通量調査と、隣りの局からも駆り出されたらしく。おぬしのせいで、と現場からは随分な恨み買えども、その交差点だけ連動式の信号が導入され。踏切が開いた時だけ青信号が長く、いや、本当の話。それも近所で。

(令和6月2月15日/2835回)

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2024年2月10日 (土)

軍曹

静脈ならぬ動脈、それも「大」付かば死因に聞くこと往々。ちょうど一年前、倒れて昏睡のまま生死の淵をさまようこと数日。九死に一生、奇跡の生還を遂げた理由や。

関係や知らぬ、が、病床にて手を握るは看護婦。若い女性に寄り添われ往生を遂げるも一興。もはやこれまで、と遠のく意識に届くは必死に呼びかけるその声、いや握力に。あくまでも本人談にて。人を成長させるは、倒産、投獄、大病、とされ。

話せぬ言葉。親子でさえも意思の疎通おぼつかず。長子相続こそが大権現様の遺訓とされど。障害有する嫡男に家督を継がせるべきか否か。が、仮にその言葉を解す家臣いれば。いや、どう見ても奇声にしか聞こえぬ、それが上様の言葉などと誰が信じるか。

彼を介さねば将軍とは話が出来ぬとあらば目上のたんこぶ、どころかその座とて危うく。容認など断じて出来ぬ、排除せんとの老中の執念やすさまじく。決して目や耳になってはならぬ、あくまでも口に徹せよ、と幼少に教えるは大岡越前守なれど、口に徹するとはかくも。数々の屈辱に耐えに耐え。

もう一度、生まれてもこの身体でよい、そなたに会えるならば、と時の将軍に言わしめた忠臣。史実の考察は専門家に譲るにせよ、九代将軍、家重を描く時代小説、村木嵐著「まいまいつぶろ」。ぜひ一読を、と支援者から。

小才は縁に出合って縁に気づかず、中才は縁に気づいて縁を生かさず、大才は袖すり合った縁をも生かす、とは、かの剣豪の言葉とされ。いつぞやの便宜の見返りに、それは無報酬で一向にかまわんのだけれども。

そう、少なくとも「日に百球」の途中経過を、と心配いただくに無碍に断れず。夜の会合までの間でよければと。いや、あくまでも「ふむ」と相槌を打っただけの話、課されたなどとは。いや、そのへんも見透かしていたやもしれぬが。今日のメニューと示されるは三百球。一万発打たば「見える」と。遊技場の出玉じゃあるまいに。「見えず」とも。

あちらの言い分としては、飛距離を稼ぐに欠かせぬは下半身。それだけ立派な身体あらばもっと、という親心らしくも。こちとら当時の部活動とて所詮は「補欠」であるし、あくまでも趣味の延長、前に飛びさえすれば。そこの意識に著しい乖離あり。

いや、百球をフツーに打つだけでも十分にしんどいというに。軍曹の監視下の下、やれ肩が云々だ、とか球の位置がズレとるとか、あれこれに意識を向けるに脳とて。日々使わぬ部位を動かすは有益と知れど、さすがにそこまで酷使せずと。

いや、サボるは人の性根のみならず、筋肉とて同じ。ゆえに無意識に身体が動くまで覚えさせねばならぬ、そんな理屈は分からんでもないのだけれども何せ後に大事な予定が。打ち終わらねば帰れぬ雰囲気。拙速に振らんとするに叱られるし。遅刻ばかりかヘトヘトのまま。三百球よりもフルマラソンのほうがよほど。

(令和6月2月10日/2834回)

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2024年2月 5日 (月)

誤解

成績が足りぬ、とあらば口は挟まぬ。が、劣らぬどころか上位を占めるというに下位のクラスに編入されるは納得いかぬ、と怒髪天を衝く勢いの妻。才人は回りを気にせぬもので、周囲に左右されるなんぞは恥と知るべし、むしろ他人に好影響を与えてこそ、と言い含め。そう、子が通う学習塾の話。

さて、今日の話題や久方ぶりに手帳を埋める新年会。内輪の親睦を深めるは大いに結構なれど、我らが必要性やいかに、というのが。こちとて業界の為に汗かく労は厭わぬ。酒などなくとも。いや、「ありつく」と申しても周囲から視線を注がれては食った気がせぬばかりか、複数のはしごとあらば料理とて手つかずのこと少なからず。双方に「義理」に負うところ大にして。

かたや、相手がいかに公益的な団体と申しても会費に公金の支出は認められず。コロナを機に進む取捨選択。この前なんぞ市議は私一人にて他の出欠を聞くに見せられる一覧表。「欠席」の二文字目立つ中にあって、ただ、一人、備考欄に「電話繋がらず」と。

忘れぬ貸し借り、貸しは忘れても借りだけは。どうせ包んでも包まれるのだから、いっそ手ぶらでも、といつぞやにそんな話が浮上して。確かに損得はゼロに違いないのだろうけど、あくまでも「陣営」としての収支。同僚の新年会に行くゆえ後援会から会費の支出を、なんてことにはならず、出費は自腹。受付には相手方の女性陣が温かく迎えて下さる中にあって、双方に手ぶらで合意済み、なんぞ恥ずかしくて言えるか。

ということで四年ぶりに自らの後援会の新年会を終えた。I市議なんぞ今年は自らの新年会を開催せぬゆえ双方なしで、と告げて下さるは偽らざる本音と知るも、「先輩」とあらばもそっと気の利いても。かたや同じく開催を見合わせた同期のM君なんぞは後日に欠席を詫びるとともに御祝を添えて。そうでなくちゃいかん。蛇足ながら電話繋がらぬその市議も「先輩」だったナ。

枯花の身にあって客人少なく、肝心の代議士すら現れぬ中にあって、団長以外の市議にも壇上にて祝辞をいただいたのだけれども、翌朝に前夜の粗相を詫びるは新人のK君。はて、何か。当人にはそれが私の一番の資質に見えたらしく、この先輩は職員の心を掴むのが上手い、と。

私には賛辞にしか聞こえなんだが、「彼ら」を厳しく監督する立場こそ有権者が期待するものであって、自らの発言が支援者に誤ったメッセージを与えてしまった、いや、ひいては心証を害してしまったのではあるまいか、とは良心の呵責か。

言った後に正しいか否かを振り返ること自体、立派なもので、ちゃんと考えとる証拠。何よりも悪意なき挨拶は不思議と相手に通じるもので。いや、ただ一つ誤解しとるところがあるとすれば、それは何も「彼ら」、つまりは職員に限らず万人に通ずるもので。尚且つ、私が「たぶらかしとる」と思っとるとすれば。

やはり自然と人が集まってくるような魅力が備わっておらぬようではまだまだ。何をバカな。

(令和6月2月5日/2833回)

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