失恋
貰い受けし湯呑が愛用品。歴代の総理の氏名と似顔絵がズラリ並ぶ中にあってひときわ目立つ自らの名。あえて記すが当人らしく。
県庁の応接間にて目が合いし重鎮がひと言。相談する相手が違うぞ。さりとて、んなことはどこ吹く風、の当人。成否はさておき、どんな厄介な依頼とて二つ返事で。人と会うに不快な表情見せることなく、その天真爛漫な性格は万人から好かれ。やはりこの世界にあって理に勝るは情。この御仁に県政の指揮棒を振らせてみたかった。
末期と聞いて見舞に訪ねるに目の前で泣くも泣かれるも後味悪く。肝胆相照らす仲にてバカ話に終始して最後の別れとなった。秋田からの上京組にて未だ残りし方言が一層に当人の魅力を高めており。享年五一は逝くに惜しく。みちのくの訛り遠くに枯芒、と一句。
残されし御遺族の悲しみに比べれば、それっぽっちの。とは言えるはずもなく。恋の悩みや深刻。それも、相手が見つからぬ、ならばまだしも、電話が繋がらぬ、と。感情に任せて相手に浴びせし言葉を後悔してみるも覆水盆に返らず。繋がらぬとあらば不安も余計に増幅され。されど執拗に追うはかえって逆効果。そのもどかしさや何とも。が、そもそもに相談の相手がこんな私なんぞでいいのだろうか、なんて。
芸術の秋、久々の演奏会にてベルリオーズの幻想交響曲を聴いた。「ある芸術家の生涯」と題が添えられるに曲を以て描かんとの意図は酌み取れるも、その芸術家とは。
若き日の当人が恋するは一人の舞台女優。通い詰める中にあって抑えきれぬ衝動。相手が相手、かなわぬ恋と諦めるが凡人、芸術家にあっては我に手に入れられぬものはこの世にない、位の自信家になくば大成はせぬもの。が、恋愛は相手があっての話、満を持しての求婚も儚く散って。
失意の中に生まれるは。相手を殺して自らも、と。事実、犯行の一歩手前まで。が、そこに生ずる新たな着想。大作を世に送り出さば彼女はきっと振り向いてくれるはず。んなのは勝手な妄想。いやいや、妄想が妄想に終わらぬが真の芸術家。
功成り名遂げてその名声に演奏会場に駆けつけるはあの時の女優。そして見事に二人は結ばれ。かつて見向きもしなかった相手が成功を収めた途端に求婚に応ずるというのはオンナ側にもどこか下心がありそうな気がしないでも。そんな生活も長くは続かず、破綻の理由や。
かつて、通い詰めし劇場に催される演目やあの作品にて女優演ずるはオフィーリア。惚れるは女優ならぬ役柄だった、なんて説も。恋の衝動が生み出した力作は聞く人を飽きさせず。とりわけ人気の第四楽章に添えられし題は「断頭台への行進」。夢の中で恋人を殺害した芸術家が、行進曲と共に断頭台に向かう、と解説が。
その複雑な精神構造を理解せんとするに自叙伝らしきものもあるらしいのだけど。読みさしが机上に積もり。そこまで辿り着かぬ。
(令和5年10月26日/2813回)
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