寄贈
時間に遅れぬは律儀、几帳面というよりも。ベテランの荷物も背負わされること往々にして終わらぬ原稿。新人が顔見せぬ中にあって、時間前に居合わせる二人。隣席に水を向けるに、手がけた原稿は五本、と他会派の大ベテラン。そればかりか、若手は選挙に忙しいだろうから、と。まさに市議の鏡にあるまいか。いやいや私とて。
スタッフよりも候補多くては絵にならぬ。おらが代議士の下僕たる目印、水色のジャンパーを着て新人のチラシ配りに追われており。バッチを隠したほうがむしろ様々な声が。されど、時に変装を見破られたりもして、やはり知性とオーラは隠せぬというし、違うか。閑話休題。
委員会の報告に聞く名。本市の収蔵品に同氏の作品が含まれるとは初耳。その道の大家三人の鼎談というか随筆をまとめた一冊は芸術を知るに良書ではないかと。「三人三様」(勅使河原蒼風、土門拳、亀倉雄策共著)。
既に三年、あれだけ無残な姿を晒した河川敷には子供たちの元気な声が戻るもこちらはそうはいかぬ。水害に逢いし市民ミュージアムの収蔵品。何故に地下なんぞに、と憤ってみても覆水盆に返らず。日々ボランティアに専門家を交えた地道な修復が行われており。その費用や年間数億円とされるも点数が点数だけに終わり見えず。それだけの予算を投ずる位ならばいっそ。いや、口が滑ってもそんなことは。
さりとて、中にはガラクタとは申さぬまでもそれに近き収蔵品とてゼロにはあるまい。そもそもに市が欲したというよりも持ち主から寄贈の申出があって市が貰い受けたというのが大半であって、得々とその価値を説かれるに拒めず、そんな立派なものを、なんて世辞の一つも添えて貰い受けたまでは良かったが、その後の扱いに困って、というのが偽らざる真実にあるまいか。
おぬしに価値が分かってたまるか、との批判とて甘んじて受ける。が、わが自慢の品などと申しても作品の評価はいつ世も「見る」側にある訳でその価値を物語る入館者数。寄贈する側とてそれほど貴重なものならば自ら私財を投じて。そこに見え隠れするは功名心、そして、自ら所持し続けることへの不安。
寄贈、それも相手が役所とあらば後世の憂いなく、との下心とて結構、が、あくまでも善意に留めおくべきで、己の希望で手放した以上、そこに口を挟むは迷惑な話。市とて決して粗末に扱うつもりなど。ボランティアの皆様による献身的な作業への謝辞は惜しむものになく、ひとかたならぬ恩義は終生忘れてはならぬ。
が、ジグソーパズルが如く、始めた以上は最後の一片まで、とひたむきに向き合う彼らの労に報いねば、との親切心に予算が投じ続けられるのであれば、そこは冷静に。寄贈者や関係者に非礼と知るも誰かがそれを言わねば。
金銭にせよ、恩義にせよ、貸したものは忘れる。逆はダメですぞ。
(令和5年2月15日/2764回)
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