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2022年1月

2022年1月30日 (日)

牙城

演歌と時代劇を愛してやまぬO幹事長から「字は心」と教わり、郷土史に偲ぶ昔日寒の内、と一句添えて御礼に代えた。柿生と岡上の頭文字を冠して柿岡塾。地元の古老が編纂された「柿ふる里」を謹呈いただいた。

転倒寸前に手は出れど、それに勝るは体重だった、と本人。よもや反射神経の良さに「若さ」を誇示しとる訳ではないと思うけど。「あの日」のとんだ災難、手術後に復帰果たせしYセンセイを迎えての常任委員会の論戦。

老朽化著しい施設の複合化。土地の有効利用と一体的な管理運営に負担軽減を図る。ということで俎上に上がるは富士見公園内に立地する教育文化会館と労働会館。上層階に労働会館、下層階は教育文化会館が占めるとされて、サウンディング型市場調査を実施した、と報告を受けた。

民間事業者のノウハウや幅広いアイデアを募集、というのが趣旨、パブリックコメントと並ぶ今どきの流行も、知恵を寄こせとせがむは自らの無能ぶりを晒すようなもんで。時に「やってる感」の演出にしか見えぬことも、そのへんはいづれ。

話を元に戻す。となると、民間に委ねる方向性は決まっていて。指定管理者を前提に一体的な管理を目指す、と労働会館を所管する経済労働局。とあらば必然的に下層階とてそうなる「はず」なのだけれども、そちらの所管先や「未だ検討中」との姿勢崩さず。市が公言して既にサウンド調査も催しとるに、この期に及んでやるかやらぬか分からぬ、では整合性がとれておらぬ、と上がる気炎。

何と申しても教育文化会館は市民館の大本山。仮にそこに風穴あけば他の市民館に飛び火すること必至。何としても直営を死守せねばならんとの蜂起が予想され。利用者サービスの低下を招きかねぬ、と煽動するはいつもの手口。仮にそこだけに「限定」しても折角の牙城を敵方に明け渡すことにもなりかねず、掌握下の出資法人に委ねんと画策すれど、上層階側と折り合いが付くか。

ならば複合体にて双方に果実分け合えばいいではないか、とは勝手な推測なれど、もはやどちらの味方だか分からぬ。そのへんが不器用というか、煮え切らぬ姿勢がもどかしさを駆り立てて。決して軽からぬ決断と知るも何故に判断下すにそこまでの時間を要するか。それが通ずるは役所の特権なれど民間との意識の乖離は甚だしく、井の中の蛙か。

緩まぬ追及の手。過去の災害時に浮かび上がるは責任の所在。施設そのものは市の所有なれど、運営を担うは指定管理者。生じた被害を巡り紛糾した経緯あり。過去の教訓が生かされておらぬと。そこは急所と知れど、急所となるにはそれだけの理由がある訳で。

契約に新たな一文、ましてや「補償」なんて二字が入ろうものなら「別途」費用が生じるは世の常識。あくまでも仮定の話にて深掘りするに限界あれど、互いに知らぬ存ぜぬ、ではさすがに。非常時にこそ問われる真価。業者選びは慎重に。

(令和4年1月30日/2691回)

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2022年1月26日 (水)

七訓

公演中止に伴う払戻について、との知らせが届いた。同じ中止でもマラソン大会などは諸経費を除いた分を返還との内容が目立つもこちらは全額とあって、少なくとも振込み手数料くらいは、と逆に。それにしてもマーラーの交響曲第三番を聞き損じてしまったのは何とも残念。

当事者の欠席に授業は継続、欠席者が一定数に達した段階で学級閉鎖を検討する、というのが従来のはずも。一人の陽性者に全員が濃厚接触を疑われ、学級閉鎖もしくは休校となる事例も少なくないとか。迫りくる入試日。何ら体調に異変なくも下手に認定されて自主隔離など課せられては。君子にあらずとも危うきには近寄らぬに限る、とばかりに欠席を決め込む生徒が後を絶たぬとか。

幸いにしてうちなどは塾に通わせとるゆえ何とかなりそうなものの、大幅な授業数の減少に期末試験が中止となるばかりか、入試当日までに履修が間に合わぬ現場。予期せぬ事態、不可抗力と申してもソレを理由に学習の機会を奪うとは何とも解せぬ。いや、授業を受ける、受けぬはあくまでも子の権利、というけれども受けさせる「義務」を負うは親であることをお忘れなく。

突然の宣告のみならず、当面の間とあらば保護者の困惑は当然。休暇を取得するに会社側の都合もある訳で。相次ぐ保育園の休園。懸念されるは患者の症状以上に社会機能の麻痺。本来ならば少しでも混乱を減らさんとする方向に自浄作用が働かねばならんのだけど、ヘンな力学が働いて、社会が翻弄されているようにしか見えぬ。

御子息の陽性判明に保健所の指示を待つよう自宅待機を命ぜられど、なしのつぶての状況にM君から連絡があって。テンパってる可能性が高いゆえ、と疲弊する現場の窮状を告げた。

日々、患者等の発生について市からメールが届くのだけれどもその項目に「経路」「症状」があって、経路は「陽性者と接触」「家庭内」「未定」の三つ。症状は「重症」「中等症」「軽症」「無症状」に「調査中」の五つの分類。こと陽性者数とともに「未定」「調査中」の割合が上がり。経路などは「未定」九割、症状にあっては全てが「調査中」と手が回らぬ状況が窺い知れて。

決まりである以上は把握せんとする保健所の職員たちの涙ぐましい努力は否定せぬ、が、労多き割に結果が報われぬことは世に少なからず。そもそもにその区分けとて恣意が介入する余地が大きく。まさに青息吐息の現場にあって、そんな時こそ負担を軽減する事務点検を実践してみてはどうか、と。

野にある如く、とは利休七訓の一つ。いけばなのことを知らぬ厄介な勘違いは、外に咲く花を切り取ってそのまま花生けに挿す意と解釈してしまうこと、と古本屋で入手した「三人三様」の勅使河原蒼風氏の随筆に見かけた。規範が不要とは言わぬ、が、バカ正直に人のいうことを鵜呑みにしても命まで保証してくれるものになく。

某所にて遊技店並みの派手な看板の店舗に出入りするは青い防護服のスタッフ、道ゆく人の呼び込みに余念なく。看板や防護服以上にその表情に違和感を抱いてしまったのだけれども。「無料」の対価やいかに。

(令和4年1月26日/2690回)

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2022年1月20日 (木)

銀杏

職場内の監視の目をかいくぐるにその肩書は好都合だそうで未だ残る利用価値。「センセイ」に呼ばれてやむなく、と。

こちとて、「受験生の気が散りかねぬ」と帰宅を歓迎されぬ身にて結びつく利害。若手の職員らからの誘い少なからず。大して働きもせんのに無銭飲食など言語道断、むしろ、名義を貸す以上はこちらの分を負担する位の気遣いあって然るべきも、「残りは頼む」と渡される会費は随分と安くあるまいか。

そもそもに事後の割り勘こそが常識であって、事前の会費制など信用置けぬ。いや、年下に相手をしてもらうとはつまりはそういうことであって、呼ばれるうちが花かもしれぬ。そのへんセコくなったことが出世できぬ、いや、出来たとしても寂しき管理職たる一因にあるまいか。が、ちゃんとそのへんの帳尻合うのが世間。

「招待」ということは勿論、そういうことなのだろうけど、晴れて三十回の達成に催されし記念大会。安からぬプレー代を節約できるとあらば欠席の理由など見当たらぬ。前の組に入れてもらったのだけど、後ろに上がる歓声。好調なパットに1オーバーで前半終了も好事魔多し、後半は一転。終盤の追い上げに最後のパーもむなしく年齢に一打及ばずプレーを終えた。他には数え年も可とする例も散見されど、あくまでも今の年齢だと自らに厳しく。エイジシュートの話。

さて、市制百年の招致を目指していた全国都市緑化フェアの開催が正式に決まった、と報告を受けた。建設進む本庁舎の完成に花を添えるは目の前の銀杏並木、のはずだったのだけれども三年に一度の刈込にバッサリと。散髪が如くはいかぬ、三年待てど元に戻らぬと専門家。先の定例会の一般質問にてMセンセイが取り上げていたことは存じていたものの、議長の仲介による造園の関係者との意見交換に顔を出した。

三年に一度、それもフェア開催の直前とあらばもそっと慎重に進めるべきではなかったか、とは相手方の言い分。公園や街路樹を含めた緑を担うは本庁の緑政部なれど、維持は現場の道路公園センターにて発注部門はそちら。尚且つ、維持とて道路と公園は別部門なれど街路樹等の一体的な維持管理を目的に統合され。相互理解が進んだとはいえ、道路構造物としての認識が勝れば景観など。そのへんの目配りが足りなんだか、銀杏の悪臭に落葉の苦情が寄せられた結果、「強め」の指令が下されたとか。

そんな市役所通りと第一京浜が交差する歩道橋の上からの景観は最高。そこから見れば三角形が一糸乱れず重なって見える。見よ、この黄金比と言わんばかりの傘の幅と支柱の高さの絶妙な比率。「ランドスケープアーキテクト100の仕事」なるマニア的一冊を紹介されて、これこそが街路樹の模範、と力説をされた主は業者ならぬ当時の緑政部長。

されど、更に時代を遡ればそんな銀杏並木も伸び放題にて「年増女の厚化粧じゃあるまいに」と苦言を呈した市議が居たとか居ないとか。

(令和4年1月20日/2689回)

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2022年1月16日 (日)

増築

必要に迫られて、というよりも純粋な学問的探求心にて読んだ経済本に温暖化を巡る一話があって、実体なき排出権は投機に付け入る隙を与えかねず、と見かけた。急増に対応するに従事者が足りぬ、と申しても「かもしれぬ」容疑の段階で身柄を拘束することが事態に拍車をかけているとすれば何とも。広がる妄想、人工的に作り上げられた可能性は無限に広がり。容疑者の身辺まで容疑者にされかねぬ勢いか。

止まらぬ拡大。一回に効果薄く、二回でほぼ完璧。と吹聴された接種の効果やいかに。重症化せぬはその効能、などと語られるも、ならば、日に十人の重症者やいづれも非接種かと見れば、んなことはなく。そもそもに「貰わぬ」とのふれこみになかったか。感染率を問われて症状を答えるに詭弁というか、論理のすり替えってもんで。接種や接種証明の義務化が招く他国の騒動を見るに日本って平和だな、と。

さて、こちらは逆に探究心ならず必要性に迫られて、ということらしく。浮上する地元小学校の増築計画に近隣から「待った」の声。昨今なんぞは何でもが権利に結びつく時代だから。が、声の主はそこに居を構えて数十年、御令嬢とてそちらの卒業生であるし、歴代の校長とも親しく、学校のよき理解者だったはずも。

さすがに隣接する敷地に新たな校舎が建設されれば無傷とはいかぬ。が、そこは子供たちの為に。いや、かつては日々の挨拶と会話の中に相互理解が図られたはずも今や互いに顔も知らず。それでいて、何の前触れもなく郵便受けに投函された計画書を見れば。この状況下にあって説明会は困難との事情こそ察すれど内容が内容だけに。ただでさえ疎遠になりつつある関係に追い討ちかけし疫病の余波。

生徒数の急増なる不可抗力であればまだしも然して変わらぬ生徒数に増築する理由やいかに。少人数学級の推進、つまりは一学級あたりの人数を見直すことに伴い、生じる不足教室ということらしく。いや、教師の負担軽減にきめ細かい指導云々との狙いは分からんでもないが、進む少子化に私学への流出が顕著な学区にあって「増築」してまでとなると。仮に今は必要だとしても十年後にはどうか。ちゃんと将来的な生徒数の予測など行われているのか。過渡期だけならば既存教室の暫定的な活用や簡易校舎なる選択肢とて。どこぞの教室なんぞは、と具体的な教室名まで。さすがに詳しいじゃん。

そう、当初は急な変化に情緒が不安定になりがちな低学年向けに少人数学級が推進されてきたはずも徐々に対象学年を拡大しつつあるらしく。教師の確保ばかりか「増築」に生ぜし費用は安からず。生徒数の減少に閉校、いや、空き教室となりはせぬかとの懸念。まぁその時は「超」少人数学級にでも。一学級の適正な人数に正解なく、生まれる拡大解釈。増築の前にまずは教育の本分と向き合ってみてはどうか。

(令和4年1月16日/2688回)

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2022年1月10日 (月)

鶏肋

辺境の地に独立の機運高きはそこに限らず。隣市への編入をチラつかせるは悪い冗談、と勝手に。

本市には全国的にも珍しい陸の飛地があって、その経緯や他に譲る。辺境なれど、辺鄙にあらず。急行こそ止まらぬまでも駅とてあるし、何と申してもあの白洲次郎が余生を過ごすに選んだのがこの地。駅の反対側だけど。地名は「岡上(おかがみ)」。

市議会の議案として目の前を通過しただけに知らぬはずはないのだけれども。日も浅く、訂正は次回以降に、と送付すれば「新住所への変更を」との反響が少なくなく。確かに千何番地なんてのは他人が気にする以上にイヤだったんだろうナ。やはり、丁目のほうが。

趣味が高じて大学の講師になられる位だから当人の所蔵や推して知るべしも、そこに関心なくば紙屑に同じ。奥方の御意向にて保管庫は借りたコンテナというのだから量とて。その価値が分かる自治体に寄贈したいとの申出も、扱いに困ったというのが意外と本音に近いところだったりもして。

市議の紹介とあらば無碍にも出来ず、担当の課長が自ら交渉に臨んでいただいて、晴れて手続きを終えたのが数年間。以降、折角の寄贈品が活用されておらぬではないか、と督促が続き。それほど物珍しき代物ならば別途、立派な額縁に入れてミュージアムにでも、とは言えなんだと担当。言わんとするは十分に分かるのだけれどもこの御時世における地図の意義やいかに。

ということで前回の定例会においてその認識を教育長に問うており。ナビ機能を有したスマホの普及に薄らぐ需要、されど、古地図に川の蛇行を見るだけでも地の利を知ることが出来るし、何よりも言われた通りに右だ左だと盲従していては脳が退化しかねず、山奥の遭難や災害時など電波が途切れれば役に立たぬ、と説いてみたものの。

そう、寄贈先として本市に白羽の矢が立った一因に地名資料室なる存在があり。地名の由来から当時を物語る貴重な文献をそろえた郷土資料館的な役割を果たす。本市を語る上で重要な役割を担うその意義こそ否定せぬまでも非常に地味な存在にて。

職員録に掲載されておらぬは臨時の非常勤であるがゆえ。年間の入館者数など聞くに忍びず。そりゃ宣伝が足りぬから、と言われるかもしれぬが、そのへんの費用対効果は言わずとも。むしろ、そこまで地味に徹していることが行革の候補に挙がらぬ理由か。挙げるに挙げれぬ、いや、存在すら知らぬ可能性も。そりゃないか。

そこで、ようやく結びつく題名。「けいろく」と読む。劉備との漢中を巡る攻防戦。劣勢に立たされるは曹操軍。悲嘆に暮れる曹操、メシも喉を通らず、無意識につぶやく独りごとが「鶏肋」。側近がその伝令を各方面に伝えた際に撤退の準備を始めるは楊修。

鶏肋とは鶏の骨、捨てるに惜しいが食欲を満たすに及ばず、つまりは撤退の意と解して。されど、知らずつぶやいてしまった言葉に心の中を見透かされた気がした曹操。本意はそこにあらず、と軍規を乱した罪を被せて楊修を処刑してしまうのだけれども。そのへんにも別な教訓が。

(令和4年1月10日/2687回)

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2022年1月 6日 (木)

熱燗

謹賀新年。山陰と山陽が好例。まさに読んで字の如く山を隔てて明暗が分かれ。特に冬は顕著。吹雪にあらずとしんしんと降る雪、止めど足下悪く、外出に重い腰。そんな雪国に比べれば寒波くらいで。快晴に恵まれし元旦に初詣を終えた。

三が日。昨年は中止とされた正月の祈願が再開したとの案内に恒例のだるま売りを抜け出して。受付順は六番目。右手に根を持ち、時計回りにぐるっと返して置かんとするに止まる動き。奉納する以上は根元が神前、のはずも何故か逆向きに並ぶ玉串。

常識に勝る同調圧力、ぎこちない所作に向きを直して一件落着のはずが。埋もれし一本は神前を向いており。そもそもハナから同調など。後ろから迫りくる気配に手早く済ませて立ち去るも、その後の軍配や知らず。さも当然とばかりの油断が生んだ動揺。心の隙を戒めんとの天啓に違いない、と勝手に解釈して参拝を終えた。

んな時くらいしか顔出さぬ粗相を詫びるも大変喜んで下さって、御礼にと野菜を下さることが少なくなく。この正月も地元野菜をふんだんに盛り込んだ雑煮を食した。師走の白昼堂々、両手に野菜を携えて歩くスーツ姿は私以外になく。これがほんと目立つんだよナ。

軽トラの荷台には山積みの野菜、収穫を終えた帰り道と思しきMさんが車を止めて声をかけて下さり。自宅に戻ると聞いて、しばし後に訪ねれど、「まだ帰っておらぬ」と留守役。「はて、すぐそこでお会いしたはずも。ならば御近所の挨拶を先に済ませて」、と再び寄らばこんどはちゃんと。

聞かば折角の客に品不足では申し訳なく、別な畑で大根五本ほどを収穫して、と。もう結構な年齢のはずも御元気だよな。そう、人通り多き御自宅前の直売には客多く。長居は無用、野菜を購入するが何よりもの挨拶。小松菜三束と財布を取りださんとするに代金は要らぬと相手。それでは何しに来たのか分からぬ。物乞いじゃあるまいに。

「払う」「要らぬ」の寸劇はそこに限らず。こちとて、その収穫までの手間に苦労を鑑みれば百円すら格安な訳で、採れたて新鮮、尚且つ、地元産とくればタダなどあり得ぬ、と押せど退かぬ相手。ならばこちらが、と退くに退けぬは他客の目。

おらが有権者とあらば万が一にも「ズルい」などとの陳腐な嫉妬心は抱かぬはずもこちとて善意に甘えてばかりでは示しが付かぬ。「ならば仕事で返すゆえ」と御礼述べれば周囲にウケて。隣近所が疎遠になりがちなこの御時世において一服の清涼というか、単なる売買に留まらずそこに生まれる交流こそ地元の宝にあるまいかと。寸劇でよければいつでも。

よもや寸劇の波及効果にあるまいはずも年末の陳情多く、目下、その処理に追われており。

久々、と申しても既に一年以上、前回など思い出せぬ。「フル」を走る予定にて元旦から多摩川沿いに市役所まで。最大の難敵は練習不足ならぬ食の誘惑。年末にS君が誘ってくれて訪ねた地元の店「土と青」が旨かった。日本酒の品ぞろえが充実しており。〆に選んだ熱燗なんぞはまた格別で。

(令和4年1月6日/2686回)

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